
2009/11/08
八角形
善通寺・維摩経・ 精神医学
屏風浦五岳山 善通寺誕生院
善通寺市善通寺町3-3-1
開基・813年 本尊・薬師如来 材質・クスノキ 年代不明
善通寺大会陽
この解説書は、平成5年10月2日に善通寺法主、蓮生善隆先生より送付していただきました。蓮生善隆先生に資料送付をお願いして1ケ月たっても返事がきません。稲谷祐宣先生に、ご相談し稲谷祐宣先生のご指導を得ていると催促のお手紙をさし上げたところ、送付していただけました。
善通寺には大会陽の歴史についての資料がありませんでした。この資料は、私の研究のために、教学部で作成されたものです。重要なのは、善通寺の下記の伝承です。「フクバイ」は遠く藤原氏の昔にさかのぼり、藤原鎌足公が奈良の興福寺で営んだ維摩会という法要が、この行事のモデルだと言われています 。これを基本にして更に脚色を加え観光行事に仕上げたのが、この「はだか祭り」であり、その始まりは織田信長が天下に号令していた頃、即ち今から四百年余り前のことです。 「フクバイ」の夜、五重大塔から投下される雄雌二本の宝木は「シンギ」と呼ばれ、真言宗最高の秘法によって祈念をこめられた福利増進の象徴とも言うべきものです。
平成14年度からの宝木奉投の中止が決定しました。天正年間(1573〜1592)に始まったといわれる伝統行事が無くなりました。
長尾寺も宝木争奪の中止を決定しており、宝木奉投の伝統が香川県より消えることになりました。
高吉清順法主は「宝木奉投に代わる大会陽の行事を考えていきたい」とのコメントを発表しました。2月の第4土曜日に開催される総本山善通寺大会陽は、宝木をかついで街中を練り、善通寺法主による福授式で、福男の雄雌が決められます。
五重の塔では、稲穂加持祈祷会・稲穂投げが行われます。昔から受け継がれた伝統を守りつつ、新たな試みも取り入れながらの祭りです。
重さ約150sの大宝木を約500人の裸の男たちが担いで商店街を練り歩く「はだか祭り」が平成17年2月22日夜行われました。
翌23日には、三味線餅つきや稲穂を種籾に交ぜて植えると豊作になるといわれる「稲穂投げ」が行われました。
維摩会と維摩経・精神医学書
善通寺より送付していただいた史料において重要なのは、会陽の起源を「藤原鎌足公が奈良の興福寺で営んだ維摩会という法要が、この行事のモデルだ」としていることです。維摩会は維摩経にもとずく法会です。
仏教医学の研究者には、「牛乳の初見仏典 」として知られております。維摩経は仏教医学の入門書です。内容は精神医学です。文献を拡大してお読みください。参考文献 仏教の医学に及ぼせる影響 奈良時代医学の研究 服部敏良 昭和20年 東京堂刊
中外日報 平成6年1月22日・高野山大学図書館より
屏風浦五岳山 善通寺誕生院の歴史
空海の誕生の地である善通寺は、屏風浦五岳山(びょうぶがうらごがくざん)善通寺誕生院といい真言宗善通寺派の総本山で、四国霊場88ヶ所第75番札所です。
創建は大同2年(807年)、唐から帰朝した空海が長安(現在の西安市)の青龍(しょうりゅうじ)寺を手本に弘仁4年(813年)までの6年の歳月をかけて建立しました。父佐伯直田公善通(さえきあたいのたきみよしみち)の名にちなみ善通寺と名づけたと伝えられ、高野山の金剛峰寺よりも京都の東寺よりも早くに建てられた真言宗最初の根本道場です。
創建当時は四町四方(200ha)の敷地に、金堂や講堂など15のお堂が建ち並んでいたようですが、出土した瓦などにより創建は奈良時代で、当初は佐伯氏の氏寺ではなかったかと推測されます。
その後は、幾度か荒廃、再建をくりかえしましたが、永禄元年(1558年)の戦火で堂塔伽藍は全て焼け落ちました。
しかし、高松・丸亀両藩の援助により次第に復興し、現在の姿に整えられました。東院は伽藍、西院は誕生院と呼ばれています。
西院の御影堂の床下には、全く光のない中を歩いて弘法大師誕生の聖地をお詣りする戒壇(かいだん)めぐりがあります。
弘法大師(空海)
空海は、宝亀5年(774年)、多度郡屏風浦(現在の善通寺市)に、父・佐伯直田公善通(さえきあたいのたきみよしみち)卿、母・玉依(たまより)の3男として生まれました。幼名は真魚(まお)といい、11歳で讃岐国学に学ぶかたわら、叔父・阿刀大足(あとのおおたり)に学び、15歳で上京し18歳で大学明経科に入学した後、意を決して退学。仏教を志し霊峰や四国各地を歩きまわりました。延暦23年(804年)遣唐使として中国に渡り、長安で青龍寺の恵果和尚から真言密教を直伝され、真言宗第8祖となります。
日本における真言宗の開祖であり、「三教指帰(さんごうしいき)」、「弁顕密二教論(べんけいみつにきょうろん)」、「文鏡秘府論」など多くの著作を残しました。また、書の大家であり、土木・建築・鉱業・自然科学・医療のさまざまな分野に才能を発揮し、日本初の庶民のための学校「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」を開校しました。帰郷した空海は、それまでにない独創的な設計とその人望で多くの人を集めて、満濃池の復旧工事を完成させました。承和2年(835年)、高野山で入定し、921年に「弘法大師」の諡号(しごう)(死後におくる称号)が贈られました。参考文献 維摩会記 続群書類従巻第七百二十三 釈家部八
クスノキの薬効
採集と調整
クスノキの材を乾留たものが、一般に知られる樟脳(しょうのう)です。
薬効・用い方
クスノキの材、枝、葉からとれる樟脳(しょうのう)は、防腐剤のほかには医薬品として強心剤に用いられています。
また、局所刺激作用、防腐作用があり、皮膚病の外用薬の軟膏(なんこう)、擦(さつ)剤、チンキとして用いられています。
打撲傷には、樟脳(しょうのう)を粉末にして、黄伯末(おうばくまつ)に2パーゼントの割合で混ぜて、卵白で練って痛む部分に厚く塗ります。
樟脳(しょうのう)は、内服すると胃を刺激して食欲減退、嘔吐(おうと)などの副作用がありますので、外用だけに用います。
跌打酒(しつだしゅ)とは、当帰(とうき)60グラム、紅花(こうか)30グラム、蜀椒(しょくしょう)30グラム、肉桂(にくけい)60グラム、樟脳(しょうのう)15グラム、細辛(さいしん)15グラム、乾姜(かんきょう)30グラムを混ぜて、95パーセントのアルコール2リットルに1週間浸漬(しんし)したものです。これは、打撲、捻挫(ねんざ)、などの内出血や疼痛(とうつう)や、かいせんによる掻痒(そうよう)に外用として用います。その他
名前の由来は、和訓栞(わくんのしおり・1887)には、「奇(くすしき)の義也といえり、よく石に化し、樟脳(しょうのう)を出すものなれば名づくる成るべし」という記述があることから、奇(くすしき)から転訛(てんか)して、クスノキという名がついたという説があります。
楠(くすのき)とは、中国の四川省(しせんしょう)にあるタブノキ属の植物で、もともと日本には自生(じせい)していません。
日本に自生するものは、樟(くすのき)といい、日本のクスノキは、関東南部以西から四国、九州に自生して、台湾、中国の南シナ海沿岸の暖地に分布する常緑の高木で、植物全体に特異な芳香(ほうこう)がある精油(せいゆ)分を含んでいて、この成分が害虫などに対して抵抗力があるために、多くが巨木に生長します。
日本最大のクスノキは、鹿児島県姶良(あいら)郡蒲生(かもう)町の八幡神社の境内のもので、幹の周りが25メートルもあるそうです。
クスノキは、神聖な木として神社の境内に植えられていて、樹齢1千年にもなるものもあって、天然記念物に指定されているものが多くあります。また、クスノキは葉の縁(ふち)が堅く、擦れ合う音が雑音を打ち消し、音の干渉により、街の騒音を消す作用があります。
このため、学校や病院など静かな環境が必要な場所の周りには、クスノキを植え込むと効果が期待できます。
民間療法 樹皮や葉の樟脳の、強心剤、局所刺激作用、防腐作用を利用して、かゆみ、水虫、あせも、しもやけなど皮膚病の外用薬や防虫剤に用いる。気管支炎や他の胸部感染症に塗布する。陰干した葉を浴漕に入れ、慢性リウマチ、腰痛症、痛風に用いる。奄美大島では根を関節炎に、与路島では葉をヨモギ、スイカズラとともにハブの咬傷に用いる。
生薬名 樟木(材) 有用・有毒成分 精油(樟脳)成分の、カンファ、カンフェン、カジネン、アレトアルデヒド、ピネン、シオネール、リモネン、ボルネオール、サフロール、カルバクロール、クミンアルコール、オイゲノール、テルピネオール、リグナンを含む。
岩生山 元恩寺
和気郡和気町原308
開基・749-756年 本尊・十一面観音 材質・柏 1880年
金山寺の松原住職の弟様が住職をされており、松原住職様から「元恩寺でも会陽を開催していた」との教示により、21世・松原照賢住職様に檀家に心木が無いかを探して戴きました。住 松原照賢職様も、この時、初めて心木をごらんになったとのことです。
岡山県で柏と言えば、3種類の可能性があります・カシワ・ナラガシワ・アカメガシワです。しかし、岡山県の植物生態学調査では和気地区にカシワの木はありません。2種中で「腫れ物」の治療に使用されるのは赤目柏(アカメガシワ)です。
自生しているカシワは、2種のみです。
@ ナラガシワ(カゴウ・カゴウマキ・カシワ・カシワナラ・クロマキ・ゴトロウマキ・ナラバ・バタゴ・ミズナラ)
A アカメガシワ(アカメ・アカメシバ・カワラクサギナ・カワラヒシャキ・ゴザイバ・サイモリ・ミソモリ・ヤマギリ)
岩生山 元恩寺の歴史現在地1,5Km西の榎谷(大字本字榎木谷の中の尾)に創建され、康保元年(964)信源上人によって現在地に移転しました。
盛時には36院坊がありました。
寛文(1666年)の寺院整理の直撃を受けた寺院です。3坊が廃寺にされています。「岡山藩政史の研究 谷口澄夫」に詳細に報告されています。
寛文9年に再興。 なお復興に当っては堂宇が失われていたので、元禄元年;金山寺役者修善坊常教院が「宗堂村廃妙泉寺の本堂を元恩寺へ、客殿・仁王を願興寺へ、梵鐘は金山寺へ貰い受けたい」と願い出、許可されました。
現在 本堂、仁王門、開山堂、山王社、鐘楼、本坊等を残し、宝積院、妙行院があります。
天台宗。寛文年中遍照院訴状:一山4坊不残還俗。一説には三学院が現存し、かっては寺中妙行院、宝積院がありました。
村の中央山麓に、本堂(方五間)は南面し、其の西前には本坊、東前には妙行院、正面には単層仁王門、西後上には寶積院、東後に開山堂、後に山王社、前に鐘楼等があります。本堂の礎石には、古い物が敷箇用 いられています。
寺中寶積院の住職に、寶積院祐好と云ふ住持がありました。元恩寺第十五代法印、岩本祐應の弟子で、行年二十二歳の時、流注を発して遂に早世しました。時に元治元年子星十二月十一日で、境内に葬りました。後誰云ふとなく、是れを腫物の神ととして参詣者甚だ多く、寶積院と云へば、附近で知らぬ者は無く、昭和五年三月には、立派な寶積堂(五、五間 三間)が建てられて居ます。祐好法印御辞世の句
「術(すべ)なしと医師(くすし)の捨てし病人(いたずき)も祈れ救わん後の世の人を」
参考文献
岡山藩政史の研究 谷口澄夫 塙書房
岩生山 元恩寺の寺宝 発行年不明 元恩寺
赤目柏の薬効
雑木林には必ずこの木が確認されます。樹高も低いものから、高いものになると10mに及ぶものがあ ります
これほど豊富な資源が薬草として使えるなら便利で経済性も高いと思 われますが、案外知られていません。春先の葉は赤く美しいが段々赤みはとれてきます。柏の葉には似ていません 。昔この葉に載せて神前に供え物をあげたり、だんごなどを包みました。その用途が柏に似ていることから赤芽柏(アカメガシワ)の名がつきました。
別名ゴサイバ、サイモリバ、アカベアメコサイバ、ショウグンボク。葉または樹皮を夏季に採取し乾燥させて保存します。民間では赤い新葉と新芽を煎じて胃癌や胃潰瘍に用いられます。市場に流通しているのは樹皮のほうです。消炎鎮痛薬として、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、胃酸過多、胆石症、腫れ物などに用いられます。
動物実験で胆汁分泌促進、潰瘍の予防に効果が認められました。腫れ物には葉を煎じて飲んだり、煎じた汁で患部を罨法する方法もあります。
宝倉山 岩倉寺 観音院
英田郡西粟倉村長尾1498
開基・役之行者 中興 元亀2年 (1571) 本尊・十一面観音 材質・杉 年代不明
上面の中央部に穴を開けています.
江戸時代の中ごろから始まったといわれている会陽で、地元民を中心に約百人によって行われます
宝倉山 岩倉寺観音院 の歴史
開基・役之行者、中興 元亀2年、寺内に岩倉があり歴史の深さがわかります。神楽に「うこきなき岩倉 山に君が世を、はこひおきつつ千代をこそつめ」とあります。
本堂、観音堂、鎮守があります。
参考文献 英田郡誌全 英田郡教育会 大正12年 作陽新報社
岡山の会陽 三浦叶著 昭和60年 日本文教出版
杉の薬効 菊正宗酒造によると、通常の醸造酒とたる酒の成分をガスクロマトグラフ分析計で調べた結果、たる酒には醸造酒にはない、杉から溶けだしたセスキテルペン類15種類を検出しました。
それらの中には、βオイデスモール=潰瘍(かいよう)の予防と軽減=やエレモール=強壮・殺菌作用=など、漢方薬や精油(芳香成分)で知られている薬効を持つ物質のほか、アロマセラピーで疲労回復やリラクセーションなどの作用が知られるセドール、カジネンなど多くの物質が含まれていました。杉の木は漢方薬として利用される程、薬効の高い樹木です。古来より、杉の木の節の部分を煮汁して外用すれば神経痛やリウマチに、内服すれば吐き下しに効果があると伝えられています。杉の葉の煮汁は、消炎作用はもちろんの事、アトピー性皮膚炎にも効果があった例や、肌が白くなったという人もいます。飲用するだけでなく、葉を風呂に入れる事で、五十肩、打ち身、筋肉痛、冷え性に効果があるとされています。切り傷、腫物、火傷、虫さされなどに効果があります。
両児山 金剛寺不動院
玉野市八浜町八浜1601
開基・1424年 本尊・大日如来 材質.不明 1952年
子供会陽の宝木です。一番細い心木です。
両児山 金剛寺不動院の歴史
元川谷の西側,出雲谷にあった寺院を応永31年(1424年)に当地に移転・建立し ました。客殿は、児島湾の高島にあったものを移築したものです。 真言宗醍醐派の中本寺でした。本堂(大日堂)は文化8年(1811年)の建築で,本堂の北に接する客殿は明治11年岡山市高島松林寺客殿(元禄頃の建築)をここに移建しました。山門は市内唯一の四脚門(四足門)です。山門の北に宝蔵があり,貴重な資料や書画等を多数所蔵し,市の重要文化財に指定されています。
参考文献 岡山の会陽 三浦叶著 昭和60年 日本文教出版
沖田神社 道通宮
岡山市沖元411
開基・1694年(元禄7) 祭神・猿田彦命・天照大神他 材質・ソヨゴ 原型見本
道通宮会陽
岡山市西庄の天神八王子月尾宮へ、ソヨゴの原木を採りに行 きます.
岡山藩の干拓工事を記念して元禄7年に創建された、沖田神社境内の道通宮で行われます。道通宮会陽の起源は、1830年(天保元年)神官・金谷正時が手習所を開設し、毎年正月25日の初天神に半紙や筆を投げ奪い合ったのが始めと伝承されています。
1840年頃から正月18日の晩、大人の会陽も始まり、大人と子供の会陽が1994年迄続けられていました。
1995年(昭和30年)から子供会陽になり、2月の西大寺会陽の次の日曜日に行われています。
160年の伝統を持つ会陽で、昼間、約200人の男子小学生だけで行われます。道通宮鎮座二百年を記念して平成12年、萩原岡山市長の書にて建立されました。
2月第四日曜日に開催。午前10時〜神木投下・正午。神木については、太湯勇先生にご教示いただきました。
岡山県では、サカキが少ない沿岸域ではヒサカキをサカキの代用に使用し、冷涼な県北ではソヨゴで代用しています。
これらの常緑樹は、サカキと同様に葉が互生する性質を持っています。参考文献
岡山市史
沖新田開墾三百年記念史 平成7年 発行 沖新田開墾三百年奉賛会記念史編集委員
岡山の会陽 三浦叶著 昭和60年 日本文教出版
金田天満宮
岡山市金田 1051
開基・不明 祭神・稲荷大神 材質・杉 1888年
1月23日
明治15・18年の神木です。 明治2年〜大正15年迄の神木が確認されております。
金田天満宮 の歴史
寛文11年(1671)に完成した新田を備前藩が買上げ津田永忠が金岡新田と命名し、岡山・伊勢の宮の神官・一志平太夫に命じ京都・北野天満宮より天神を勧請しました。参考文献 ふるさと金田 金田ふるさと調査研究会 平成4年 岡山市立上南公民館金田分 館
岡山の会陽 三浦叶著 昭和60年 日本文教出版
明治3年 神社明細帳 池田家文庫
神田稲荷神社(修正会祭)
瀬戸内市邑久町尻海3036
開基・不明 祭神・倉稲魂命 材質・榊 年代不明
2月11日 神田稲荷神社会陽(修正会祭)
明治13年旧正月20日から昭和33年迄開催 、明治33年2月22日の山陽新報には、「神田稲荷社にては去る十九日夕会陽を執行とたるがなかなかの賑わいひなりしを」と記録されています。榊には特に薬効は無いようです。
神田稲荷神社の歴史
古くは字大土井カベラに鎮座し、結体角弥、藤藏秀則、朝日寺、横尾光花寺の三家が奉仕していましたが、寛正6年(1466)乙酉14日現在の地に移転しました。若宮八幡宮末社の神田稲荷神社は神徳顕著です。
寛政年間、また明治40年に社殿を改築しました。
参考文献 岡山の会陽 三浦叶著 昭和60年 日本文教出版
「神田稲荷神社の会陽」 明治33年2月22日 山陽新報
榊(さかき)の語源
「榊」は暖地の山林に自生するツバキ科の常緑樹です。サカキは、(カミギ・シャカキ・シャシャキ・メサカキ)
とも呼ばれます。字を見てもわかるとおり、榊は「神」と「木」を合わせた字ですから、神様に関わりがある木です。
榊の語源については諸説あり、神様の聖域と人間世界との「堺」を示すための木、つまり「境木」説や、「栄木」、神聖な木を意味する「賢木(さかき)」が転じたとする説があります。 もともと榊は、固有の植物名ではなかったようで、のちに特定の木をさして榊と呼ぶようになったようです。
地方によっては榊が生育しない所があるので、その地方では同じ常緑樹である杉・樅(もみ)・樫(かし)などを代用します。
榊は紙垂を付けて玉串にしたり、神様の依代(よりしろ)とする他に、神様の宿る所としての神籬(ひもろぎ )に使います。
一年中常に青々とした緑を保つ常緑樹の枝が使用されるのは、神様の尽きることのない恩恵の証とされるからです。
榊はヤブツバキとともに照葉樹として典型的なものです。東南アジアから稲作とともにやってきた人達が古里から持ち込んだ風習・文化の1つです。
八角形二分割
伊勢神社・大森(榎本神社)の新木
岡山市番町2-11-20
開基 第十代崇神(すじん)天皇即位五十四年 材質 弘化4年(1847)
祭神 食稲魂命 材質 不明
伊勢神社に「新木」が3本所蔵されています。一番古いのは弘化4年(1847)です。他は、文久2年、慶応2年です。 「新木」という漢字を使用しているのは大森(榎 本神社)のみです。大森(榎本)神社は伊勢神社の摂社です。
明治18年は2月18日に会陽が執行されました。 弘化4年から明治20年頃まで会陽が執行されていました。明治10年(1877)に奉納された会陽の絵馬があります。伊勢宮(いせのみや)。
第十代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命により創建されました。天照大神は崇神天皇六年までは天皇の大殿に祀られていましたが、その神勢を畏れ、天照大神および草薙剣を豊鋤入姫命に託して、大和国笠縫の邑に祀 られました。
その後、丹波国吉佐宮、大和国伊豆加志本宮、紀伊国奈久佐濱宮を経て、五十四年、当社(吉備国名方宮)へと遷り、当地に四年鎮座した後、大和国三輪の御諸の嶺の上の宮へと移され ました。また、式内社・伊勢神社の論社でもある古社です。元伊勢として二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいました。その後、他の神社も創建され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上がりました。
安土桃山時代以後は、宇喜多、池田両藩主の崇敬殊に篤く、池田光政公以後明治維新まで備前藩寺社領としては最高の300石を賜わり、伊勢宮神官を以って備前国神職総頭の職を拝命され、備前藩又は池田家の祭事一切が伊勢宮神官の手によって執り行われ、現在も続いてい る備前国で最も由緒のある神社です。
伊勢宮には、300年前から「御神事」という祭事が執り行われています。この御神事は、文禄元年宇喜多秀家が秀吉の命を受け、「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲胄に身を固め、藩主以下総勢が行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち、伊勢宮に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀の中に取り入れて行われたのが起源です。
明治初年の頃までは、神馬、弓、槍、具足甲胄を身につけ執り行われていました。伊勢宮の氏子は、武士と町人が半々であったため、御神事は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町(下出石町は現在岡山神社の氏子である)の四町内が順番に奉仕していました。私は、古事記中巻 「応神天皇 伊志河之河嶋」に注目しました。伊志河之河嶋を後楽園より旭川を挟んだ岡山市出石町と読みました。岡山市出石町は「和名抄」の備前国御野郡六郷の一つ「出石郷」です。
表記は高山寺本には「以豆之」、東急本には「伊豆之」の訓が付されています。平城宮からの出土木簡に「御野郡出石郷白米五斗」「天平勝宝八歳(756)米五保倭文部東人」と記録されています。岡山市出石町は岡山市中央部で最も古くから開けた重要な場所です。
参考文献
『岡山の会陽』 三浦 叶 昭和60年 日本文教出版
特集 岡山県の会陽の習俗 『教育時報』 2007年9月 岡山県教育委員会
山陽新報・明治18年2月20日
『式内社調査報告・第二十二巻』 昭和55年 皇學館大学出版部
『OSERA 021』 2006 潟Aス
『伊勢神社 神社紹介』 岡山県神社庁
『神社明細帳』 明治3年 池田家文書