2008/05/06

黒石寺 蘇民祭・ヌルデ・天然痘 ・種痘伝授書

妙見山 黒石寺 薬師堂
 

〒023-0101  岩手県奥州市水沢区黒石町字山内17   TEL 0197-26-4168
 

開基729年(天平元年) 本尊・薬師瑠璃光如来 コマ木材質・ヌルデの六角形 (古代・五角形

名称 蘇民祭、ソミトリ(蘇民取り)、ソミヒキ(蘇民曳き)

    



黒石寺 ・訪問前の事前調査

私は、黒石寺の訪問調査前に盛岡市の岩手県立図書館を訪問しました。岡山県立図書館には西大寺会陽を日本の三大奇祭(岡山説)と言いながら、黒石寺や蘇民祭に関した蔵書はありません。レファレンス担当者に、黒石寺と蘇民祭に関連する全ての文献を探していただきました。高さにして約30センチ、約3時間をかけて、全ての文献を調査しました。そして、下記の疑問点を持って、黒石寺を訪問し、藤波洋香住職のご尊父である藤波隆夫先生にお会いしました。


1、黒石寺の黒石は薬石ではないのか. 学名は明確になっているのか。

答 研究した人はいない。 学名は蛇紋岩である。 印材に使用できないかを研究した

蛇紋岩

     

蛇紋岩(じゃもんがん)は、暗緑色〜黄緑色の、蛇の皮のような模様をした岩石です。蛇紋岩は蛇紋石(Mg3Si2O5(OH)4・ケイ酸塩鉱物)を主成分とする超塩基性岩で,国内に大量に存在する数少ない鉱物資源です。SiO2含有量45%以下のため、Mgなど金属成分の含有量が多くなっています。

水に溶けて電離し水酸化物イオン(OH)‐を放出するため、水はph8以上のアルカリ度を示します。蛇紋岩は割れやすい岩石で,崖崩れなどの危険が伴います。Mgは植物が根から水を吸収する働きを鈍らせるため、
蛇紋岩変形植物、蛇紋岩残存植物という珍しい植物が生育します。


2、葉樹王院と薬樹王院と、どちらが正しいのか。 医王は釈迦とされている。

答 「薬樹」である。

薬樹王、又は薬王樹と云う。

薬樹王・ビワ

草木の以って病を治すべき物」あり、中に於いて「最上なるを薬王」と称す。

photo

ビワの葉療法は、三千年もの昔、釈迦の時代から伝承されており、インドの仏典「大般涅槃経」(だいはつねはんぎょう)の中では、ビワの木は、枝・葉・根・茎ともに大薬である「大薬王樹(やくおうじゅ) 」、また、ビワの葉は「無憂扇(むゆうせん)」と記され、生けるものすべての病を治すと説かれています。

「大薬王樹、枝、葉、根、茎ともに大薬あり、病者は香をかぎ、手に触れ、舌で舐めて、ことごとく諸苦を治す」と記されています。

びわの葉療法は鑑真(唐招提寺健立)が中国から日本に伝えたとされています。
公明皇后が730年に「施薬院」(病院)を創設し、びわの葉療法がおこなわれていました。
僧侶が寺の境内にびわの木を植えて檀家の人々や村人に、びわの葉療法を行い、病人を救ってきました

ビワの薬効

採集と調整

ビワの葉は、青々とした新鮮な葉を15〜6枚必要なときにつみ、葉の表や裏の柔毛をタワシでよく洗い取り除いて、水洗いして生のまま用います 。
その葉を、2〜3センチ幅に切って適量の水を入れて煎じます。ビワの葉の乾燥したものを、生薬名で枇杷葉(びわよう)といいます。

薬効・用い方

あせもには、葉を3枚ほどちぎり、水0.5リットルで煮出し、冷めた汁で患部を洗うようにします。
打撲、捻挫には、ビワの葉約30枚を水洗いして、1センチほどに刻み、水気をとってから広口びんに入れ、ホワイトリカーを葉が浸るまで注ぎ、2〜3週間おいてからこれをこし、脱脂綿に浸して患部にあてます。その上から乾いたタオルなどをのせて、さらにカイロで暖めます。
咳止め、暑気あたり、胃腸病には、葉2枚をちぎり、水0.4リットルを加えて煎じ、約2分の1の量まで煮詰め、適当なときに飲むようにします。

ビワ酒:

疲労回復や食欲増進には、果実1キログラムを水洗いして、よく水気を切ってから、ホワイトリカー1.8リットルにグラニュー糖150グラムを加えて漬け込み、3〜6ヶ月後に、こしてビワ酒にします。ビワ酒は、1日3回20ミリリットル程度を飲みます。

ビワの種子、葉の成分には、青酸配糖体アミグダリン(ビタミンB17・約20PPMが含まれる)はガン治療薬に臨床応用されていて、腰痛、肩こり、冷え性、皮膚炎、高血圧、糖尿病、リウマチ、ガンのほか、血液をアルカリ性にする血液浄化作用があります。

また、ビワの葉の成分は精油、サポニン、ビタミンB17、ブドウ糖、クエン酸、タンニン糖質などです。
ビワの葉、花は、風邪にハチミツとビワ花を適量いれて15分くらい蒸してから食べると咳がとまり、咽が痛いときには、ビワ茶に塩を入れてうがいをします。
皮膚炎、火傷、水虫、捻挫、アトピーには、ビワの葉を水半量に煮詰めて、薬用アルコールに溶かして、直接性皮膚炎に効果があるとされます。
ビワの葉には殺菌力があり、この煎じ液を風呂にいれたビワ湯は現代病のアトピーに悩む人にも効果があるとされます。

ビワの仏教医学:

3000年の歴史をもち古来から伝承されている、ビワの葉療法とは、緑の濃い厚手のビワの葉の光沢のある面を焦げない程度に火にあぶり、2枚合わせて10回ほどすり合わせて、1枚ずつ両手にもって熱いうちに皮膚を直接なでます。腹部やへそ下を6〜7分丹念にマッサージします。
これは、ビワ葉には、アミグダリンとエムルシンとが含有されていて、葉の表面を火であぶることにより、相反応して微量の青酸が発生して、それが皮膚を通して吸収されて、甚大な効果を発揮すると考えられています。

その他

江戸時代には「枇杷葉湯(びわようとう)」として、庶民の夏の暑気払に盛んに飲まれていました。枇杷葉湯(びわようとう)は、ビワの葉に肉桂(にっけい)、霍香(かっこう)、莪述(がじゅつ)、呉茱萸(ごしゅゆ)、木香(もっこう)、甘草(かんぞう)の7品目を同量混ぜ合わせて、煎じて作ったものです。

てんびん棒を肩に「ご存知本家天満難波(てんまんなには)橋朝田枇杷葉湯(びわようとう)・・・」と売り歩くさまは、浪花や江戸の風物詩だったようです。

含有成分:がん治療薬のアミグダリン(ビタミンB17)、精油、サポニン、ビタミンB1、ブドウ糖、クエン酸、タンニン糖質、
酸性の血液をアルカロージス(弱アルカリ性血液)に変え、自然治癒力促進。


3、七仏薬師法の七仏とは何か。

答 写真にて説明。

  七仏薬師法

七仏薬師 七仏薬師法は円仁が嚆矢とされ、比叡山の密教修法の一つで「薬師七佛本願功徳経」を典拠としており薬師七体を祈るものであるが、東方に七尊の如来が存在し最も遠い第七の如来が薬師如来であるとされる、しかし薬師如来の分身か別尊かの確証はない、七仏薬師信仰は89世紀にかけて顕著になり、新薬師寺も創建当初は七仏薬師が本尊であった。
七仏薬師信仰から七所薬師に対する信仰も生まれ、京都を中心に延暦寺・広隆寺・珍皇寺・法雲寺・護国寺・観慶寺・平等寺を言われたが現在は言われていない。また唐招提寺の薬師如来の光背にも七仏薬師が存在したとされる、さらに神護寺・法隆寺西円堂・醍醐寺・黒石寺(岩手県)等にも、そのこん跡が見られる、現存する七佛薬師像に松虫寺・鶏足寺(己高閣)は七尊が揃い重要文化財指定を受けている。

善名称吉祥王如来(東方光勝世界)           (ぜんみょうしょうきちじょうおう)
宝月智厳光音自在王如来(東方浄瑠璃世界)    (ほうげつちこうおんじざいおう)
金色宝光妙行成就如来(東方円満香積世界)    (こんじきほうこうみょうぎょうじょうじゅおう)
無憂最勝吉祥如来(東方無憂世界)         (むうさいしょうきちじょうおう)
法海雷音如来(東方法幢世界)            (ほうかいらいおん)
法海勝慧遊戯神通如来(東方善住宝海世界)    (ほうかいしょうえゆうぎじんつう)       
   
薬師瑠璃光如来(東方光勝世界)           (やくしるりこう)

最初息災修之. 近来増益修之. ⇒息災法である. 

息災法(そくさいほう)

外的な災難・障害や煩悩・罪障などを除去します。
災害のないことを祈るもので、旱ばつ、強風、洪水、地震、火事をはじめ、個人的な苦難、煩悩も対象となる。

本願薬師経

慈覚大師祥3年3月丁酉日、於清涼殿.七仏薬師法.後三条院御脳之時.⇒御脳とはどんな病気が。 頭痛か風邪か

参考文献 
七仏薬師法 日本呪術全書 豊島泰国 1998年 原書房


4、薬湯の中に、どんな薬草が入っているのか.どうするのか。

答 

裏山の湧き水のみである.霊水を釜に入れ7日7夜間煮る.沸騰した湯を飲む。一般に薬湯とは、薬草・薬木を煎じたものです。
裏山の湧き水の薬効は、調査分析していますか。
蛇紋岩は、
含水珪酸苦土鉱物です。蛇紋岩の成分、蛇紋石(Mg3Si2O5(OH)4・ケイ酸塩鉱物)を主成分とする超塩基性岩です。
SiO2含有量45%以下のためMgなど金属成分の含有量が多くなっています。
水に溶けて電離し水酸化物イオン(OH)‐を放出するため、水はph8以上のアルカリ度を示します。
つまり、ミネラルを多く含んだ霊泉であると考えます。「裏山の湧き水のみ」に、密教上最大の謎を感じます。「黒石寺最大の謎」です。蛇紋岩は遠赤外線を発します。


5、将軍木・桂木・かつのき.ヌルデの木と書いた本があるがどんな木が.

答 「かつのき」は、地方名である。 かぶれない。 間違えると漆を切る。 現物入手

ふしのき ウルシ科

別名 ヌルデ・カツノキ・カツカド・ノデボ・ノウルシ・イハイ・ノキユリデ・将軍木・濫膚木・白膠各地の山野に自生する落葉の喬木で、ウルシに似ている。


6、「将軍木」は薬木ではないのか。

答 研究した人はいない。

   漢方を勉強した人なら、五倍子を知らない人はおりません。初見は、「本草拾遺」です。      「開宝本草」等、この薬効が種痘伝授書に繋がります。

ヌルデ(将軍木・かつのき)

採集と調整

秋に果実を採取して、日干しにして乾燥させます。これを生薬(しょうやく)で塩麩子(えんふし)といい、葉を乾燥させたものを塩麩葉(えんふよう)といいます。



五倍子(ごばいし)
 

 


ヌルデにできる虫こぶのことを
五倍子といいます。これは、ヌルデの若芽にアブラムシ科のヌルデノミミフシが寄生して、枝の翼に卵を産み付け、それが耳状にふくれて虫こぶになります。この虫こぶは、タンニン質が豊富でタンニン資源として用いられていました。
秋に、虫こぶの殻を破って成虫が飛び出す前に採取し、熱湯に浸して殺虫して乾燥したものが生薬の五倍子(ごばいし)です。
また、ヌルデノミミフシの成虫は、オオバチョウチンゴケで越冬して、また翌年ヌルデの枝の翼に産卵するという生態をもっています。

薬効・用い方

下痢、たん、咳などには、塩麩子(えんふし)10〜15グラム、水0.4リットルを、煎じて約3分の1量まで煮詰めて1日3回に分けて服用します。

参考文献 薬用植物学 改訂第5版 野呂征男 他 1999年 南江堂
       原色版日本薬用植物事典 伊沢凡人 昭和55年 誠文堂新光社
       薬用植物事典 村越三千男 昭和60年 五月書房
       カラーグラフイック 薬用植物 滝戸道夫 他 昭和59年 廣川書店


私は、疱瘡の治療薬として代表的な漢方薬である「五倍子」が使用され、治療に薬効があったことを記録に残すための祭りであると
考えま した。

    疱瘡除け赤札護符

「疱瘡の治療薬  ヌルデ」  史料調査結果

江戸時代・元禄8年(1694年)成立の家庭医学書『救民妙薬』に「疱瘡」ヌルデを使用した治療法が紹介されています。

@ 小児疱瘡藥として「赤牛の歯を粉にして用いる」

A 疱瘡の目に入ったのには「
ヌルデの脂(やに)を乳にてとき、目の中に少しさしてよし」とあります。

ヌルデと疱瘡が文献史料により結びつきました。

また天保9年(1839年)成立の『経験良方』には疱瘡藥として疱瘡の虚して発疹することが難しくなったものには、金龍散(金硫黄、龍脳、沙糖)を、同じく雑腹蘭(サフラン)を、また腐敗しただれた疱瘡には幾那防腐飲(幾那、王攻(まい)瑰花)を、同じくただれた疱瘡には緑礬精などの処方が挙げられています


救民妙薬 (きゅうみんみょうやく)

      
         

元禄6年(1693年)水戸光圀が、藩医・穂積甫庵に命じて編集した本が『救民妙薬』1695年刊です。
この本は、家庭用の医学書で農民や庶民のために野山の草木、動物など手に入るもの を利用して薬を作ることを教えました。
これは庶民を対象に、本草(植物)の利用法や日常の健康法などをまとめたもので、だれもが理解しやすいように、平易な言葉で書かれています。
出版された『救民妙薬』は各地で読まれ、病気の人たちの助けとなりました。
当時のくすりは、『救民妙薬』にもみられるように植物を材料とした和漢の生薬が中心でした。
江戸時代
のみならず明治・大正まで続くロング・セラーとなりました。
医師たちは、漢方医学の古典とされる「傷寒論(しょうかんろん)」
に基づいて、患者の病気に合わせ、数種類の生薬を調合しました
現在でもかぜ薬として知られる葛根湯(かっこんとう)は、発汗・解熱作用のあるクズの根を主体に、麻黄(まおう)・大そう(たいそう)・桂枝(けいし)などを調合したものです。慢性肝炎の治療薬である小柴胡湯(しょうさいことう)は、昔から肝臓疾患に効くとされたセリ科のミシマサイコの根である柴胡(さいこ)を中心に、半夏(はんげ)・黄ごん(おうごん)・大そう・人参(にんじん)などを調合した薬です。
江戸時代の医師は、患者を診断し、症状に応じて、それらの生薬の量を調節し処方しました。
現在では漢方薬と呼ばれている
の多くが、当時の生薬の調合薬だったのです。

救民妙薬』は、常磐神社義烈館〒310-0033 茨城県水戸市常磐町1-3-1)主要収蔵品として知られております。

「薬の社会誌」松井壽一著 第2章 黄門様のくすりのわかる本―江戸時代のベストセラー『救民妙薬
 


牛痘術・種痘伝授書

末武保政先生の 著書、「黒石寺蘇民祭」、「1859年(安政5)の住職・亮湛は九州佐賀の人で、菅野東水門人本田春雄から牛痘術を授かり、種痘医となったことを示す一書が残されているのは興味深い。」という仏教医学の研究者にとって注目すべき記録があります。


参考文献 岩手県史 第5巻 近世編 昭和38年 岩手県
       種痘医 北域諒斎 天然痘に挑む 二宮陸雄 1997年 平河出版社
       種痘 新生医学全書 矢追秀武 昭和22年 南條書店


疱瘡・天然痘

   字弁集・香月牛山著・内藤記念くすりの博物館蔵書


天然痘は世界保健機構(WHO)によって1980年(昭和55年)10月26日全世界からの撲滅が宣言されました。
しかし、天然痘ウイルスの恐怖は21世紀の今もテロの手段、生物兵器として増しつつあります。
天然痘の歴史を確認しておきましょう。江戸時代の日本人の死因の第一位は、疱瘡です。
死因のトップは疱瘡で、そのうち69%は乳幼児であったと記録されています。
天然痘の発祥地はインドとその周辺です。
ヨーロッパには12世紀の十字軍の遠征の頃に伝わり、16世紀以降は流行が広がりまた繰り返され、流行の最盛期には感染を免れた人はわずかに数%、4分の1は死亡し、半数はあばた(痘痕)を持っていました。
日本には、仏教伝来の頃に大陸から伝わり奈良時代にはしばしば流行したと記録されております。
史書への初見は天平7年(735年)の『続日本記』です。
近世にいたるまで天然痘はしばしば流行を繰り返し、『日本疾病史』(富士川游)によれば天平7年(735年)から天保9年(1838年)までの1103年の間に58回もの大流行が記録されております。
天然痘は麻疹(はしか)と同じく一度かかれば二度とかからないという強い免疫性があります。
医史学者の立川昭二は「日本人は天然痘となかば馴れ親しんできた。」と記録しています。

疱瘡”を読んだ川柳に

 「痘瘡の神とは誰か名付けん、悪魔外道の祟りなるもの」「痘神(いもがみ)に惚れられて娘値が下がり」「ほうそうは器量定め」

古代より疾病の流行期には神を祭り祈ることが行われていますが、“疱瘡”についても例外でなく江戸期には“痘瘡”の流行期には
疫病の神を祭ったり、江戸中期に至ると“痘瘡”の神として特定の神を考えるようになり“痘瘡”は“疱瘡神”“痘神”のなせる業であり、
この神に祈願すれば“痘瘡”に患らないと信じられたわけです。 
 

参考文献 日本疾病史 疱瘡 富士川 遊 昭和44年 平凡社
       日本紀略 国史大系 
       江戸病草子 筑摩書房 立川昭二 
       幕末写真の時代 筑摩書房 小沢 健志
       百年前の日本 小学館 エドワード・S・モース・コレクショ
       鳥取県の疾病史覚書 明治・大正時代 森納 平成12年
       古事類苑 方技部 昭和57年 吉川弘文館
       人類医学年表 古今東西対照 三木栄 阿知波五郎 1981 思文閣出版
       補訂 朝鮮医学史及疾病史 三木栄 平成3年 思文閣出版
       備前の名医 難波抱節 中山そそぐ 2000 御津町
       岡山の民間療法 下 鶴藤鹿忠 竹内平吉郎 平成7年 日本文教出版


7、五角形・六角形と書かれた本があるが二種類あるのか。

答 六角形のみである. 五角は間違いである。  
    
調査結果 古代は五角形  「五角より六角へ変化・加工の容易性」

六角形・六壬神課

六角形は六壬神課(りくじんしんか/りくじんじんげ)を意味しております。
陰陽道によるものです。奈良・平安の時代に陰陽寮と名付けられた公的機関がありました。
そこでは式占(ちょくせん)という
占いが行われていました。
これは式盤を使った種々の占いの総称ですが、『古事類苑』「方技部七」に下記のような記録があることから、
六壬神課の古さが分かります。
「式占とは、六壬、太乙、雷公、遁甲の四種の占卜の総称にして、皆式盤を用いるに由りて名づくる所なり。
六壬占は、年月日時、及び行年方位の干支を推し、四課、十二将、十二神を弁じて占うものなり。
中古以来、太占(ふとまに)既に絶え、易占い漸く衰うるや、陰陽寮は神祇官の亀卜と並びて、専ら此の占法を用
仏教的展開です。六壬(りくじん)の歴史は大変古く、伝説によれば紀元前2600年頃にさかのぼります。中国の黄帝が九天玄女より伝授され、その後周の文王や、三国時代の蜀の諸葛孔明等が利用したと伝えられています。また、孔明には「六壬類苑」という著作もあったようです。
中国では六壬のことを”孔明馬上の占い”といい、三国志の中に出てくる名軍師・諸葛孔明が馬上で、手の平の上に六壬の課式盤を作って戦の趨勢を占ったという伝説が残っています。
また、平安時代には日本へ伝わっており、陰陽道の陰陽師達によって、盛んに利用されました。
陰陽師達が六壬で占った占例が、現在にも数多く残されており、安倍晴明は「占事略決」という六壬の書を現代に残しています。
特に、日本では国家の大事を占うにもこの六壬が利用されました。

六角形の心木は会陽では2ヶ所のみであり、仏教学で は説明できません。

蘇民祭のコマ木は六角形です。


8、五角形の仏教学上の意味は何か。調査結果 古代は五角形  「五角より六角へ変化・加工の容易性」

答 研究した人はいない。

  古代は五角形

末武保政先生の 著書、「黒石寺蘇民祭」、五角形の写真が紹介されており、「五角に削り」とあり古代は六角ではなく五角でした。
五角の加工は、困難であり現在は六角に変化しております。

五角形(五芒星)セーマン

  清明神社    
 

蘇民祭の中でも、五角形箟峯寺 (宮城県) と黒石寺のみです。
五角形は陰陽道の
「五芒星」を意味しており、陰陽道に用いる代表的呪術図形です。五角形の星印(五芒星ゴボウセイの形)は、セーマンという呪符です。
セーマンはドーマンと共に、
陰陽道が生んだ独特の呪符です。


9 ヌルデ の1年枝苗(いちねんごびょう・1年目の若枝)の意味

答 研究した人はいない。

末武保政先生の 著書、「黒石寺蘇民祭」、ヌルデ「1年枝苗(1年目の若枝)」を採取するとあります。
これは
、「五倍子を採取する時期」を意味しております。9月下旬から10月20日頃迄に五倍子を採取しなければいけません。
その時期が
タンニンを一番多く含有しております。

参考文献 香登お歯黒 平成1年 香登お歯黒の研究


10、東光山・妙見山は、山号では無くて、寺域の「大師山の古名」ではないのか.

答 研究した人はいない。

   北辰妙見信仰によるものです。

北辰妙見信仰


(1)北極星

北極星(ポラリス)とは、こぐま座のアルファ星で、ちょうどくまのしっぽの先に当たり、光度2.1等の星です。
地球の北の地軸の延長線上(天の北極)にあり、一晩中動かない星です。
実際は、天の北極よりも1度近く離れており、小さな半径で日周運動をしており、古来より航海などで北を指す星として、大変重視されてきました。

日本では、「子(ね)の星」と呼ばれています。子は十二支の最初ですが、方角でいうと北を指す言葉です。
見かけ上、すべての星(太陽や月も含む)が北極星を中心に運行するので、昔の人々は、この星に特別な地位を与えました。
古代中国では、北極星に対する信仰が生まれ、日本にも入り、北辰妙見信仰になりました。

(2)道教・陰陽道「おんみょうどう」と北辰信仰

古代中国では、あらゆる星が北極星を中心に巡ることから、全宇宙を司る星として、最高レベルの神として崇拝されるようになりました。
北極星は、北辰(ほくしん)と呼ばれ、天帝の化現した姿だと信じられていました。

辰とは、龍神のことです。
北辰は、道教の中心的な神である太一神(たいいっしん)と同一視され、また、陰陽道で宇宙生成、森羅万象を司る神として位置づけられる泰山府君(たいざんふくん)とも、同一神であると見なされることもあります。
中国の陰陽五行説(すべてのものが「陰」と「陽」で成り立つという二元論。
たとえば、太陽は「陽」で、月は「陰」であるなど。
この思想は、日本を含む中国文化圏に多大な影響を与えた。)にもとづく自然観察の方法に、様々な民間信仰が結びついて神秘思想として体系化されたものです。
陰陽道における北辰の概念は、中国とほぼ同じで、天地草創の中心に位置する宇宙根元の神とされています。
北辰から、日月が生じ、五星(木星、火星、土星、金星、水星)が生まれ、それが五行になったといわれています。
五行とは、すべてのものを構成する元素と考えられたもので、木火土金水(もっかどごんすい)の五つから森羅万象は成り立っているという中国の宇宙観です。
さらに、五行から人間が生じ、人間の根元をたどれば北辰に達すると考えられていました。
インド(仏教)では、四大(地水火風)、それに空(くう)を加えた五大という考え方があります。
墓地で見かける五輪塔は、五大を形にしたものです。北辰信仰は、北極星に対するものですが、広く北斗七星も「辰」と見なされ、北斗祭祀もまた、北辰信仰と習合していきました。
陰陽道では、北辰は今日でも、鎮宅霊符神(ちんたくれいふしん。鎮宅霊符とは、陰陽道最強の護符)として祀られています。
 

 
(3)仏教と妙見信仰
 
仏教に取り入れられて妙見菩薩に対する信仰として、普及していきました。

妙見菩薩は、サンスクリット語で「スタルシャナ」といい、国土を守り、災いを消し、敵を退けて福寿を増進する誓願を建てた菩薩であると言われています。
しかし、その起源をインドに求めるのは、少し無理があるようです。
 
『北斗七星延命経』や『北辰菩薩陀羅尼経』などの経典もありますが、後につくられた偽経であろうと推測されています。
 
やはり、中国における北辰信仰を、仏教に取り入れたものと思われます。
平安初期に成立する、あの『日本霊異記』にも、すでに妙見菩薩の功徳が述べられています。
主に密教(天台宗・真言宗)に取り入れられた妙見(密教では尊星王−そんじょうおう−)信仰は、妙見供、北斗法、北斗護摩などのさまざまな星供養を生み、民間には陰陽師(おんみょうじ=一般の人々に暦を売ったり、簡単な祈祷などをして歩いた人々)の活躍もあって、広く一般に広まっていきました。

11、胆沢城のパンフレットの人形は道教と思う。 道教との関係は調査したのか。

答 研究した人はいない。

伯斎寺の「斎」は道教の言葉です。どちらの寺院も慈覚大師の開山です。道教の「塗炭祭・黄録祭」との、比較研究が必要と思います。
道教の日本的展開が陰陽道であり当然関連有りと考えるべきです。

参考資料 

岩手日報ニュース 1999年3月24日

「墨書人面土器」

水沢市埋蔵文化財調査センター(朴沢正耕所長)は3月23日、同市佐倉河の国指定史跡「胆沢城跡」で昭和52年に出土した未整理資料の中から9世紀前半の「墨書人面土器」が見つかったと発表した。

岩手県内では最古で、古代では唯一の遺跡例。
道教系の疫病よけ呪術(じゅじゅつ)に使われたとみられ、同センターは胆沢城造営当時に道教系の宗教が一般に浸透する契機になったことを示す貴重な資料としている。
見つかった土器は昭和52年、東外郭線北東(北舘)地区が対象だった第27次発掘調査で表土層から出土した。
昨年末、膨大な点数の未整理資料の整理作業の過程で見つかった。延暦21年(802年)の胆沢城造営間もない時期のものとみられる。

須恵器の坏(つき)の体部破片で大きさは幅5.9センチ、高さ3.8センチ、厚さ0.5センチ。
人の顔は土器の外面に炭による線で描かれている。髷(まげ)のような頭髪や、大きく描かれた耳たぶなどが特徴だ。

昭和53年の調査でも土師器(はじき)の坏に描かれた破片が出土したが、顔が半部欠け全体の形は不明だった。
完全な形は東北では多賀城跡(宮城県)、城輪柵(山形県)からも出土しており今回は4例目だが、他の3例はいずれも甕(かめ)の外面に描かれている。

墨書人面土器は道教系の疫病よけの呪術の道具で顔は「鬼神」を表すと考えられている。極端に貧相だったり憤りなど異常な表情であることが多い。

今回の土器は、造成当時の胆沢城でも疫病神を追い出すことなどと目的として土器に人面を描き川などに流す「墨書人面土器祭祀(さいし)」が行われていたことを裏付けるものという。
同センターの伊藤博幸副所長は「当時、宗教といえば仏教と考えられているが、道教系の宗教も身近だったことを示す。
土器は胆沢城の役人が(祭祀を)行ったと考えてよい。その後辺境の地の一般農民層にも道教系の宗教が広く普及する契機になったと考えられる」としている。

岩手日報ニュース 2002年3月18日

九字線刻土器が完全形で出土

水沢市埋蔵文化財調査センター主催の本年度市内遺跡発掘調査報告会は17日、同市佐倉河の同センターで開かれた。
古代律令国家の鎮守府・胆沢城の南方にある林前南館(はやしまえみなみだて)跡遺跡から、道教で魔よけを示す九字(くじ)が刻まれた9世紀後半の土師器(はじき)が出土したことが報告された。
九字線刻土器が完全形で出土したのは県内で初めて。同センターは「中央の信仰が波及していたことを裏付ける貴重な発見」としている。
報告会には市民ら約100人が出席。昨年4−12月に発掘調査が行われた市内5遺跡について、成果が示された。
九字は縦4本、横5本の線を格子目に刻み、
道教の信仰上、魔よけ、おまじないの意味を持つ符号。

林前南館跡遺跡では平安期の住居跡から九字を刻んだ内面黒色の土師器1点、線刻本数が少ない土師器の破片が約20点出土。

接合し検証したところ、今年1月ごろ九字と判明した。国内では埼玉県の遺跡などからの出土例があるが、同センターによると、東北では今のところ報告例がないという。
同センターの伊藤博幸副所長は「中央から移住した人たちが蝦夷(えみし)に対する魔よけとして使っていた土器とも考えられる。
全国的に出土例は少ないが、当時律令制支配下にあった地域には存在した土器と推定される」と分析する。

林前南館跡は、1200年前に征夷大将軍坂上田村麻呂が造営した胆沢城から南方約5キロにあり、現在の同市真城迎畑にある縄文から中世までの複合遺跡。これまで縄文期の陥(お)とし穴遺構21基、平安期のかまど付き竪穴住居18棟、掘立柱建物、井戸、土壙(どこう)跡、土器だまり、中世の掘跡、掘っ立て柱建物、井戸、竪穴遺構、溝跡などが出土している。

【写真=土師器に刻まれた魔よけの意味を持つ「九字」


11、修正会に「悪口・雑言を浴びせる.」と言うのは、初めて聞いた。他に同一の寺院はあるのか。

   道教をイメージする。

答 研究した人はいない。

修正会の研究論文が少なく、同一事例発見できません道教の「塗炭祭・黄録祭」との、比較研究が必要と思います。


12、「鶏と卵を食べない.」という伝承は、注目すべきである。

 大同2年(807)に坂上田村麻呂が飛騨の工匠を招き再興したが、7間4面の本堂を一昼夜で竣工させよう とし、東隅  の一部がまだ成らぬうちに鶏鳴暁を告げたので、里人は鶏を忌みて飼わず、また食べない遺風が 続いている。

 他の地区の同一伝承と比較研究した人はいるのか。

   答 研究した人はいない。

     鶏を食べないのはゾロアスター教です。中国では古代の宗教観から、新年には鶏を食べない地域があります。
          日本で、鶏はおろか卵も食べないという地域があります。民俗学では、「鶏の民俗」という研究報告があります。

     「韓日民俗文化の比較研究や十二支の民俗伝承」です。 しかし、道教経典関連の報告が無いので、私には満足できません。

     岩手県立図書館での、3時間だけの事前調査では、上記の質問しかできませんでした。

     早朝7時前に、ご訪問して約8時間、面談いただきました。仏教医学・道教医学が黒石寺と蘇民祭の起源であること は明確です。


黒石寺・蘇民祭

妙見山黒石寺(水沢市黒石町字山内)では、旧正月7日の夜から翌8日の明け方にかけて蘇民祭が行われます。

この祭は五つの行事から構成されています。

7日午後10時の裸参り(夏参り、祈願祭)

祈願者、厄年の善男善女が鐘の合図で社務所前に集まり、各自角燈(四角ともいう)並に割竹にはさんだ浄飯米(おはんねり)を持ち、列をつくり瑠璃壺(るりつぼ)川(山内川)で身を浄め、薬師堂、妙見堂を巡り、五穀豊穣、災厄消除を祈願します。

午後11時半、柴燈木登(ひたきのぼり)

前日に境内の山中から採られた生松割木(長さ5尺に切って二ツ割にしたもの)を井桁積に3mル以上の高さに2カ所(昔は3カ所)に積み重ねて火を焚く。

群集は山内節を唄い、ジャツソー、ジョヤサ、のかけ声をかけて祈願します。

翌朝午前2時、別当登(べっとうのぼり)

鐘の合図で社務所に集まり、手木(祓棒)が祓人(はらいびと)に配られ、別当が守護役、祓人に守られ、法螺貝、太鼓を従えて薬師堂内陣に登り、護摩焚き供養を行ない、参拝者、祈願者に護摩を授けます。

午前4時、鬼子(おにご)登り

檀家の7歳になる男子2名に麻衣を着せ、籠手をつけさせ、木槌(さいづち)を持たせ、鬼面を逆さに背負わせ、水垢離(みずごり)をとった大人に背負われて薬師堂に登り、参拝します。
鬼子登りの式が終ると蘇民袋(そみんぶくろ)争奪戦(蘇民ねじり又は蘇民びき)が始まります。

五穀豊穣、無病息災を願って故事にならい、
疫病の護符である將軍木(かつのき)を削って六方形とし、毎方「蘇民將来子孫門戸☆・(そみんしょうらいしそんもんこなり)」の九字を書き、寸角に切って麻袋(祈願者が1日で紡いだもの)に入れた蘇民袋を檀徒の1人が抱き、外に向って「蘇民将来」と3度叫び終るや、裸体の若者達がこれを奪いあい、堂の外陣は八方から袋を目がけて飛びかかる肉弾相うつ、るつぼと化します。
堂の外陣でひともみもんだ挙げ句、裸形の群は堂外へ潮のごとく押し出されてくる。氷点下、寒冷積雪の中です。
西に奔り、東に飛んで、生きものの如き袋の行く方を追って奪ったり、奪い返えされたり、汗みどろの争奪戦が明け方までくりひろげられます。白一色の中に展開される男性美の極致です。
かくて激闘3時間近くに及び、ようやく夜が明けそめる頃、取主が凱歌を挙げる時刻となり、袋を奪った者の地が五穀豊穣が約束されるといわれています。


黒石寺・薬師如来坐像

黒石寺は天平元年(729)行基の開基と伝えられ、「東光山薬師寺」と称しました 。

嘉祥2年(849)
慈覚大師この地に至り、遺址をついで伽藍を増し、山中に妙見堂あるが故に山号を妙見山とし、黒石(蛇紋岩)が出るので寺号を黒石寺と改め 、寺の北の岩屋に一夜坐禅をしこの寺を中興しました。
大同2年(807)に
坂上田村麻呂が飛騨の工匠を招き再興しました。
7間4面の本堂を一昼夜で竣工させようとしたが、東隅の一部がまだ成らぬうちに鶏鳴暁を告げたので、里人は
鶏を忌みて飼わず、また食べない遺風が続いています 。寺の東に妙見宮があります。

東光山薬師寺の頃は、仏教伝来・最古の三論宗でした。
平泉2代基衡の頃に天台宗系となり、寛文5年(1665)からは正式に天台宗に編入されました。

黒石寺には、
貞観4年(862)の貞観仏があります。



picture85.jpg (333094 バイト)   picture78.jpg (193552 バイト)  picture79.JPG (151185 バイト)  

picture86.jpg (322910 バイト)

昭和32年国の重要文化財に指定された黒石寺の本尊薬師如来坐像には、墨書胎内銘(ぼくしょたいないめい)があり、胆沢城の造営から60年後の「貞観4年(862)12月」とあります。
判読できる墨書銘からは「
額田部(ぬかたべ)」や「物部(もののべ)」氏など四氏系の名前も見え ます。
国の重要文化財である昭和34年指定の僧形坐像にも墨書銘があります。

永承2年(1047)
のもので、像高は67p、寺伝では慈覚大師坐像とされています。
黒石寺の仏像群は、約1,140年も前の薬師如来坐像から始まり、12世紀半ばの平泉の主、藤原基衡が寄進したと伝えられています。
この像はつり上がった目尻、よく通った鼻筋、分厚い唇、いかつい肩、幅広くどっしりとした両膝など、中央の仏像とは作風を異にしたいかにも東北的な造形をもつことでよく知られてい ます。
藤原清衡の中尊寺造営を溯ることおよそ250年、かつてアテルイの本拠地であった北上川東岸には東北独自の仏教文化が確実に根付いていました。

平成12年4月1日、黒石寺をご訪問して、
藤波洋香  住職のお父様である藤波隆夫先生に8時間にわたってご詳細に指導いただきました。

参考文献 
黒石寺蘇民祭のすべて 佐藤東吉 東奥の奇祭 妙見山黒石寺蘇民祭のすべて 昭和57年 黒石寺蘇民祭保存協力会
岩手民間信仰辞典 平成3年 岩手県立博物館 岩手県文化振興事業団
水沢市史6 民俗 昭和53年 水沢市史刊行会
黒石寺蘇民祭覚書 末武保政 昭和47年
黒石寺蘇民祭 末武保政 昭和46年
蘇民将来発祥の地 藤原勉 昭和42年 東北民俗


      北上川東岸の仏教文化

北上川東岸は岩手県内でも最も早い時期に仏教が伝播した地で、北上市の極楽寺遺跡をはじめとして、立花の毘沙門堂(北上市)、成島の毘沙門堂(東和町)、藤里の毘沙門堂(江刺市)、そして黒石寺など平安時代の古い仏教文化が残っている地域で す。

この地はもちろんえみしの頭領アテルイが日夜馬で駆け巡った場所であり、大和朝廷に対する最後の抵抗の地でもあります。
伊達家の祈祷寺として「
山内医王」(山中にある薬師如来)の名は遠くにまで響きわた りました。
8世紀の後半になると大和朝廷のこの地への侵攻がはじまり、以後十数年にわたって朝廷軍とえみし軍との戦いが続きました。
そして延暦21年(802)、朝廷の軍事、行政拠点としての
胆沢城が築かれ、アテルイの率いるえみし軍は降伏して、岩手県南部は朝廷の支配体制下に入りました。

参考文献 第七節 社寺と文教 岩手県史第3巻 中世篇 下 昭和36年 岩手県


伊手・熊野神社・蘇民祭

岩手県江刺市伊手字角屋138番イ号

祭神 伊邪那美命 コマ木材質 ヌルデ

実施期日 正月十九〜二十日

名称    熊野神社蘇民祭、熊野神社蘇民除夜祭、ソミノキ、熊野様の十四日祭り

由来伝承

400年以上も前に、伊手地区が大凶作になり、また原因不明の疫病や火災などが相次ぎ、住民たちは不安のどん底に陥れました。
そこで黒石寺の蘇民祭を真似て蘇民祭を始めたとされています。
平成11年で165回目の開催です。伊手の伝統を誇る「蘇民祭」が行われます。
戦後は地区の若者が減ったため昭和35年から中断しましたが、「伝統ある祭りを伝え残したい」という地区民の声が高まり、45年に復活しました。当時は1年置きの開催だったものの、50年からは毎年開催に完全復活しました。

平成7年11月に「記録作成等の措置を講ずべき国の無形文化財」に岩手県内の蘇民祭が指定されましたが、その一つとして市内外に多くのファンを持ちます。

祭りは、神前にお酒などを供えて祈る「ご膳上げ」に始まり、火を付けた歳戸木(井げたに組んだ丸太)に男たちが登る「火たき登り」、総代が行列を従えて進み蘇民袋を神社に奉納する「別当および袋登り」、7歳の男の子を大人がおぶって神社に登る「鬼子登り」と続きます。
クライマックスは小間木が詰まった蘇民袋を奪い合う「蘇民袋争奪戦」。
下帯姿の男たちが怒声を上げて蘇民袋を奪い合い、観客もこの熱気と興奮を堪能します。

 

蘇民袋と小間木(こまぎ)

蘇民袋争奪戦で男たちが奪い合う「蘇民袋」は麻製。
中には将軍木(カツノキ=ヌルデ)で作られた「小間木」(蘇民将来=護符)が詰まっています。
蘇民袋が切り裂かれたものや小間木を持っている者は、災厄を免れるといわれています。

火たき登り 
 

神社に奉納している雷木(雷が落ちた木)を井げたに組んだ「歳戸木」(高さ4メートル・重量10トン)に火を付け、下帯姿の厄年連中が上に登り、燃え盛る火の粉をものともせずに除夜祭のなまりである「ジョヤサー」の掛け声を掛け合います。

岩手県内の蘇民祭では最大規模の蘇民袋争奪戦
 

蘇民祭のクライマックスで、小間木が詰まった蘇民袋を敵の首領の首に見立て、下帯姿の男たちがお堂の中や神社の境内で奪い合います。火たき登りです。

袋分け
 

蘇民袋争奪戦が終わると、最後に「取り主」が発表されます。
争奪戦後の蘇民袋は取り主に配られるほか、地区の人々などに幸せを願って袋分けされます。

鬼子登り
 

鬼子は7歳の男の子2人で、麻衣を付けて鬼の面を逆に背負い、丈夫な人に背負われて神社に登り祈願します。
蘇民袋に詰まっている小間木を「蘇民将来」(=護符)と呼ぶのは蘇民将来説話にちなんだもので、災厄を免れるとともに福運を授ける蘇民将来をめぐり、厳寒の夜に裸の男たちがぶつかりあって獲得を競う祭りが蘇民祭なのです。
蘇民祭は、伊手熊野神社だけではなく水沢市の黒石寺、花巻市の胡四王神社などでも行われ、岩手県内に多く残されています。
いずれも五何かを取り合うかたちが共通しています。穀豊穣や無病息災を祈る祭りとされ、寒中裸でもみあいながら、それぞれの社寺に特定される


胡四王・蘇民祭

岩手県花巻市矢沢第三地割160番地

開基 807年(大同2年) 祭神 大己貴命 小彦名命 コマ木材質 桜 

旧名 医王山胡四王寺(天台宗) 本尊 薬師如来

名称 胡四王蘇民祭 ソミン 胡四王神社蘇民祭

 

実施期日 1月2日 午前9時〜12時

由来伝承

昔、花巻地方に原因不明の難病が流行したことから、慶応元年(1865)より蘇民将来の説話譚に基づき蘇民祭が行われるようになり、疫病退散、家内安穏、五穀豊穣、村中安全を祈願します。
蘇民祭は、将兵の武運と無病息災を祈願して薬師如来を祭ったことから、この疫病退散と合わせ、国家安穏、五穀豊穣、村中安全を祈願します。
戦後しばらく途絶えていたが、昭和49年氏子青年会の手により復活し今日に至っています。
蘇民のコマ木を作る材質はきまっていないが、堅木で作ることとし、現在は神社境内の桜を使っています。
コマ木には、七輪の火で焼かれた十二支文字の焼印が押されています。

形状は平板 25x25x8 mm 蘇民袋には、十二支の焼印のもの12組、その年の干支12枚、計156枚私は、原因不明の難病とは疱瘡であると考えております。

 

胡四王神社

花巻市の東郊外、標高176mの胡四王山中に立つ神社。拝殿に刻まれた彫刻の見事さは必見。

胡四王神社は、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征のおり、自分の兜に納めていた薬師如来を安置し、武運と万民の息災を祈願したのが始まりといわれ、中世期の稗貫氏、江戸期の南部氏に篤く庇護された格式の高い神社です。

入母屋造の拝殿、一間社流れ造の本殿は、多くの均整のとれた彫刻があるのが特徴で、ともに建築当時の名工の手によって造られた貴重な文化財です。

また奉納される胡四王神楽はその起源を康保年中(964−968)まで遡り、神社には慶長三年 につくられたとされる古い獅子頭も伝えられていて、歴史の深さを物語ります。

・市指定:建造物(拝殿・本殿) 平成13年3月21日
     :彫刻(獅子頭) 平成11年3月17日
     :無形民俗文化財(胡四王蘇民祭) 平成7年11月22日
・県指定:無形民俗文化財(胡四王神楽) 平成13年5月11日


早池峯神社・蘇民祭

岩手県稗貫郡大迫町内川目1.1

開基 807年(大同2年) 祭神 瀬織津比売神(せおりつひめのかみ) コマ木材質 乾燥した柳

名称    早池峯神社蘇民祭 蘇民祭 蘇民

実施期日 新暦 3月17日  10:00〜 神事  11:00〜12:00

由来伝承

早池峰神社蘇民祭の由来は定かではないが、少なくとも明治時代には行われていたとされています。
中断を経て昭和三十八年に地区住民を中心として復活し、四十年代に入って地区外からの参加者が増えたそうです。
コマ木材質として 乾燥した柳を使用しています。
大きさは、2.5x2.5x0.6mmの板状−蘇民袋を手にした人には1年間の無病息災と家内安全が約束される−といわれる蘇民祭。
厄除け、五穀豊穣と無病息災を願い、下帯姿の男たちが雪の境内で、蘇民袋を奪い合うという勇壮な祭りです。

蘇民袋の中には十二支の焼き印が押された365枚の駒が入れられ、蘇民袋を手にした人には1年間の無病息災と家内安全が約束されるといわれています。
午前10時からの祈願祭に続き、本殿から蘇民袋が投げ込まれると、下帯姿の男たちがだんご状になって押し合いながら争奪戦を開始します。
袋を男たちが押し合いながら参道を下り、参道入り口の鳥居のゴール時点で袋の口を押さえている人に駒が与えられます。
参加者は祈願祭の開始の10時前に神社で受付をすれば、誰でも参加できます。
年明け後に県内各地で催される蘇民祭行事の締めくくり。

 


 

光勝寺五大尊・蘇民祭

岩手県稗貫郡石鳥谷町五大堂11-49  電話 0198-45-2230

開基 843年承和10年 本尊 五大尊 コマ木材質 ヌルデ

名称    蘇民祭、五大尊

実施期日 旧暦正月6日、7日。2月18日

満願日の7日には、多数の参詣者が南部公の駿馬を感得されたことにあやかって、早朝から数百頭の馬に乗馬のまま長さ92センチ、回り約7センチのヌルデ(勝軍木)を鞭として、護摩火の燃え上がると同時に大音声を上げて鞭で堂をたたき、その音響の聞こえるところまで家内安全魔事なしと言われました。

こうした堂たたき行事に続いて護摩法要に加持した護摩火の餅、すなわち供養餅を堂外の参拝者に与えました。
これが年を経るにしたがって競争の度を高めてきました 。これが蘇民祭の始まりと言われています。
こうして年々その数を増す参詣者全員に供養餅を与えることが出来なくなったので群衆の中に投げ出すようになりました。
これが自然に競争になり、土や泥にまみれ、衛生上は勿論、もったいないというので、明治27年(1894年)光勝寺26世赤塚宥天和尚の時に小さな板札(約1.6センチ四方)に五大尊の梵字を書き裏には駒形の印を押し、その年の日数365枚(その年1年間の息災祈願の意)に限り麻の袋に入れて投げ出すようになりました。
起源は、1191(建久2年)にさかのぼり、800年以上続く伝統行事といわれています。
旧正月元旦から7日まで国家安全、五穀豊穣(ほうじょう)、病魔退散、牛馬安全の秘法を時の住職が修行します。満願日の7日に南部公の駿馬(しゅんめ)にあやかり、馬に乗った参詣者が押し寄せます。
護摩火餅の供養餅を参詣者に配り、争奪が激しくなったのが、蘇民祭の始まりとされています。
旧暦の正月7日、五大堂の光勝寺で行われる五大尊ゆかりの伝統行事です。無病息災を祈り、護摩を焚きます。
ハイライト「蘇民袋の争奪戦」には下帯姿の男衆約50人が参加します。
手にした者には幸運が訪れるという麻袋に入れた365枚の木札を奪い合い、激しい肉弾戦を繰り広げます。


興田神社・蘇民祭

岩手県東磐井郡大東町鳥海字小山38番地 興田神社 電話 0191-74-2106

開基 718年(養老2年) 祭神 大御中主大神 高皇産霊神 神皇産霊神 コマ木材質 ヌルデ

旧名 妙見山 法眼寺 本尊 弥陀薬師観音妙見摩利支天像 (慈覚大師造立)

実施期日 1月3日夜〜4日朝 平成13年から

       以前は旧暦正月7日の晩から8日朝まで実施 

名称  ソミトリ 蘇民袋の中の護符(ソミ)を取り合って、幸福を勝ち取ろうということ。

    ソミヒキ 蘇民袋を東西に引き合って、そのことによりその年の作占いをすること。 

由来伝承

1338年(延元3年)、牛玉宝印を蘇民袋の夜、子供の額に御判として押して、無病息災を念じたことに始まるとされています 。
コマ木の寸法 7x1.5x30 mmの長方形
神木(シンギ)は、約7cmの長方形で「蘇民将来子孫門戸」「興田神社」「平成14年1月吉日」と記載します。会陽の起源に挑戦する研究者にとって、最も注目すべき蘇民祭の一つです。会陽と同一のシンギという名称が使われています。
「牛玉宝印を子供の額に御判として押す」という祭りは、長谷寺に始まります。
「袋ねじり」とも呼ばれ、600年以上もの伝統をいまに培う正月行事です。
護符の入った蘇民袋をねじり上げるようにして奪い合い、地元で「袋ねじり」とも呼ばれている興田神社の蘇民祭。
午前3時からの「裸参り」に始まり、「紫燈木登(ひたきのぼり)」、「別当登り」、「蘇民袋争奪戦」が繰り広げられ、無病息災、五穀豊穣を祈ります。
3日夜半からの蘇民祭は、井げたに組まれた松の丸太に火が放たれると轟々と音を立てて燃え上がり、上に登った厄男たちは雄々しく気勢を上げます。
午前6時開始の祭りのメイン、蘇民袋争奪戦です。裸男たちは神社から興田の中心通りを通る3km弱の道のりで争奪戦を展開します。
厄払いや五穀豊穣、無病息災を祈願し、厳寒の日の出前、厄年の男たちが上半身裸の下帯姿で、お守りの入った蘇民袋をねじり(奪い)合います。
「ジョイヤサ、ジョイヤサ」の掛け声とともに、寒さで赤くなった身体をぶつけ合う姿は、まさに勇壮そのものです。
沿道からの歓声とあいまって、寒さも吹き飛ばすほどの迫力を見せます。
興田神社は平成8年に無形民俗文化財に指定されています。
 


毛越寺常行堂二十日夜祭

岩手県平泉町字大沢 Tel. 0191−46−2331 

毛越寺常行堂 本尊 阿弥陀如来と四菩薩 奥殿に摩多羅神 コマ木材質 ヌルデ

実施期日 正月二十日 (新暦)

      昭和30年ごろまでは20日、21日と2日間にわたり祭りを実施していた。

名称  二十日夜祭(ハツカヤサイ)、二十日夜(ハツガヤ)等という。

1902年(明治35年)に水沢の黒石寺より蘇民祭が伝えられ二十日夜祭で開催されました。法会が終わると須彌壇の前には護摩壇が設けられます。
暫くすると突然堂内に、楮に水引をした「手木」という木と「四角」という角燈を手にした男達がなだれ込みます。
蘇民祭「神上り」の者たちです。これはこの日行われる蘇民祭の者たちで、堂内ではこの他にも「鬼子上り」と称して麻の直垂を着、手には斧と木椎とを持ち 鬼の面を背負った「鬼子」という七つほどになる子供の願かけが行われます。

蘇民祭には、「神上り」「別当上り」「火焚上り」「お護摩」「鬼子上り」「袋ねじり」などが含まれますが、常行堂内にて行われるのは「お護摩」と「鬼子上り」、それから半裸の男達が梁の上によじ登って騒いでいるのは「袋ねじり」です。蘇民将来の入った袋を争奪するのです。
「鬼子上り」は体の弱い子供の願掛けで、当年七歳になる子供だとされています。
「鬼子」の扮装をした子が負ぶされて護摩壇の周りに連れてこられるのがわかります。


鎮守府八幡宮加勢蘇民祭

岩手県水沢市佐倉河宮の内12番地

801年(延暦20年) 祭神 誉田別尊 息長帯姫命 市杵島姫命 稚日 霊命 素盞雄尊

名称    加勢蘇民祭 加勢祭 蘇民祭 勢子祭

実施時期 旧暦 1月8日 10時〜12時

由来伝承

850年(嘉祥3年)、鎮守府に来た慈覚大師は、管内が疫を患い、民庶死に尽くすと言われるほどの病災に悩んでいることを知り、八幡宮心経会に、大師所持の疫病除けの護符今これを「そみんぼう・又はカラス」というを捧げ、庶民の苦患を八幡大神に祈りました。

この「そみんぼう」の由来は、{
大師が嘗って、大病を患いしとき、夢に天より薬を送らる。形、マクワウリの如くして、それを喰うとその味密のごとく甘味であった。「是は三十三天不死の妙薬なり」と、「飲むこと三度、10日ほどして身健に、眼明らかに、心にわだかまるものなく、病患を絶つことを得た。」三代実録より

手の蘇民祭の中では、異質です。現在「加勢祭(かせさい)」と称しています。

またこの間、加勢祭に続いて
疫病退散の『そみんぼう』神事も行われており、いわゆる「蘇民祭(そみんさい)」の類型に属します。

鎮守府八幡宮は、通称八幡(やはた)と呼ばれる水沢市の北端、佐倉河字宮ノ内にあります。

東流する胆沢川が北上川に合流する河岸段丘右岸上に位置し、前面の胆沢城跡北外郭線の東北隅(艮(うしとら))を占(し)め、いわゆる城の
鬼門(きもん)にあたります。

祭神は応神(おうじん)天皇(誉田別命(ほむだわけのみこと))、神功皇后(じんぐうこうごう)(息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと))、宇佐比売(うさひめ)神(市杵島姫命(いちきしまひめのみこと))の三柱(はしら)で、神体は最霊(くしみたま)石。
これは八幡神由来に関係して、神功皇后が朝鮮半島遠征の際、出産を抑えることができた霊石に因(ちな)みます。

八幡宮の縁起によれば、創建は延暦(えんりゃく)20年(801)、坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)遠征のとき、その成就(じょうじゅ)を願って豊前(ぶぜん)国(大分県)宇佐の八幡神を勧請(かんじょう)し、他の諸神とともに胆沢城の鬼門(東北隅)に祭り、同時に区域内に別当寺峨等山安国寺(がとうさんやすくにでら)を安置しました。
その後、寺は中世、近世に正覚院(しょうがくいん)、宝積院(ほうじゃくいん)と名を改め、天台宗から修験道(しゅげんどう)に改宗しました。いまでもここを「寺家(じけ)」と呼ぶのは、これに因(ちな)みます。「地慶(じけい)」とも書きます。

八幡宮が『正史』に登場するのは、『吾妻鏡(あづまかがみ)』文治5年(1189)9月21日条の「(二品(にほん)=源頼朝(みなもとのよりとも))伊澤郡鎮守府において、八幡宮第二殿と号す瑞籬(みずがき)に奉幣(ほうへい)し給(たま)う。
これ田村麿将軍、東夷(とうい)を征せんがため下向のとき、勧請崇敬(かんじょうすうけい)し奉るところの霊廟なり」で、この当時すでに八幡宮は坂上田村麻呂が勧請したと伝承されていることがわかります。
この後に続けて、田村麻呂は自らの弓箭(きゅうせん)(弓と矢)、鞭(むち)などをここに納置したことを記しています。
事実、宝物として伝坂上田村麻呂奉納の鏑矢(かぶらや)、宝剱(ほうけん)を今に伝えています。
この後、頼朝は八幡宮を鎌倉幕府の「御願(ごがん)所」とし、仏神事についても先例によって勤仕(きんじ)するよう指示しました。
源氏以後、中世の八幡宮は北条氏、あるいは在地領主化した葛西(かさい)氏、さらにその重臣柏山(かしやま)氏らによって維持されていました。
しかし、天正18年(1590)葛西・柏山氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ、秀吉は翌19年の九戸政実(くのへまさざね)の乱をしずめて全国を統一しました。
このとき秀吉は、浅野長政を遣わして八幡宮の社殿を造営しました。
この歴代の支配者による八幡宮崇敬は、近世の伊達氏支配になっても引き継がれました。
仙台藩主初代政宗は、鎮守府八幡宮を仙台藩八幡宮の筆頭として崇敬し、領内巡視で参詣した際には社殿五間作りを修復しました。以後、八幡宮は藩の直営で社殿の造営と修復が行われました。

江戸時代初期から後期まで、例えば政宗夫人愛姫(めごひめ)、2代忠宗、4代綱村、5代吉村、7代重村らによる社殿の遷宮、造営、屋根替え、供米の奉納などがみえます。明治時代に入り、政府は神仏を分離し、神社は国家の祭祀となりました。
これにより、八幡宮別当「修験 宝積院寛明」も明治3年(1870)に還俗(げんぞく)し、「菅原安積(やすずみ)」と改名して神主となりました。


参考文献  岩手の蘇民祭調査報告書  平成14年3月 編集発行 岩手県教育委員会  社団法人 岩手県文化財愛護協会 

 

http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/


[PR]当たる!無料占いで仕事鑑定:大人気!無料占い『スピリチュアルの館』