2008/07/15

『備前西大寺地名考』

南都西大寺と備前国-1

1 南都西大寺の歴史  真言律宗 総本山  西大寺

  南都西大寺の創建は、奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳女帝が藤原仲麻呂の反乱の鎮圧を目的とし、鎮護国家と平和祈願のために、7尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まります。造営は、翌天平神護元年(765)から宝亀末年(780)頃まで続けられました。しかし、平安時代に再三の災害に遭い衰退しました 鎌倉時代半ばになって、稀代の名僧叡尊(興正菩薩)によって律宗寺院として再興され、創建当初とは面目を新たにした密・律兼修の根本道場として伽藍を整備されました。
  興正菩薩は鎌倉時代の南都の四律匠の一人で、当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人です。

  現在の南都西大寺は真言律宗の総本山として叡尊上以来の法燈を伝え、寺宝や行事によって、その寺格と由緒をしのぶことができます。

1.1 南都西大寺と備前国

宝亀十一年(780)『西大寺資材流記帳』 「願文一巻献入薬院水田、在備前国」「備前国大豆田庄一巻、上道広成所献」
 
建久二年(1191)『西大寺所領荘園注文』 「備前国、豆田庄、田畠五十七町」

豆田庄の位置    瀬戸内市邑久町豆田
大豆田庄の位置  岡山市西隆寺から吉井川を挟んで  瀬戸内市邑久町豆田迄の広い範囲
 
780年から1191年迄の間に、吉井川の流れが大きく変化し大豆田庄が西隆寺庄豆田庄の二つに分割されました。根拠は岡山市百枝月に弘慶山円福寺があり、吉井川を挟んで豆田に福田山圓福寺があります。同一の名前の寺院が近くにある例は他所にはありません。
これは、一つの寺院が吉井川の流れが変化し分割されたものです。

1.2  『西大寺資材流記帳』 吉備命婦由利

 西大寺資財流記帳1巻 は、鎌倉〜南北朝時代に書かれたものです。『西大寺資材流記帳』に、宝亀十一年(780) 吉備命婦由利 在四王堂 進納」 との記録があります。進納されたのは、国宝の大毘盧遮那成仏神変加持経7巻天平神護二年吉備由利願経〕 です。吉備命婦由利が書写したといわれる国宝の「天平写経」 です。 『大日経』は『摩訶毘盧遮那成仏神変加持経』が正式な名称です。
 『大日経』は、空海以前のインド・中国の密教でも、空海の真言密教においても、『金剛頂経』とならんで「両部の大経」といわれる密教の根本経典です。  7世紀の前半にインドで編纂され成立したと推定され、唐の時代に中国にもたらされ善無畏三蔵によって『大日経』7巻36品が訳出されました。日本には、奈良時代に伝来していた記録が正倉院文書などにあります。

 石山寺(大津市石山寺一丁目)に、重要文化財の仏説浄業障経(ぶっせっじょうごうしょうきょう)が伝来しています。
『仏説浄業障経』は大般若経六百巻の内の一巻です。奈良時代後期の特徴であるやや肉太の書風であり、奥書に天平神護2年(766)吉備由利が天朝のために書写したことを記すとあります。
 吉備由利は吉備真備の縁者で称徳天皇の信任が厚く、由利の書写になる願経は、西大寺・前田育徳会などにも伝えられています。紙継目に「西大寺印」の朱方印が一紙おきに押されているところから、当初は西大寺にあったものです。

1.3
『続日本紀』吉備朝臣由利

  『続日本紀 巻30 神護景雲四年八月丙午条』に、神護景雲四年(770) 吉備朝臣由利、称徳の病臥中、伝奏の事にあたる」とあります。
 
 吉備由利に関する記録は、3点です。
 
 @ 天平宝字八年(764年)九月の藤原仲麻呂の乱に際して勲功があり、翌天平神護元年(765年)正月に勲四等を与えられた 。
 A 神護景雲四年(770年)五月、称徳女帝が病を得て八月に崩御するまでの病中の百余日間、女帝は群臣に謁見することを許さず典蔵吉 備 由利のみを枕頭に侍らした。宝亀五年(774年)一月二日に薨去し、時に従三位尚蔵でした。
 B 西大寺資財流記帳に、吉備由利が天平神護二年(766年)五千二百八十二巻にのぼる一切経を奉納し一部が現存してい ます。
 

2  南都西隆寺と備前西隆寺

2.1 南都西隆寺

『西隆寺発掘調査報告書』
1976年・奈良国立文化財研究所・西隆寺跡調査委員会発行
寺地  南都西大寺に近い右京一條二坊  西隆寺は奈良時代の末、西大寺の近傍に営まれた官の尼寺である。
元慶四年(880)5月、西大寺が西隆寺を摂領した。
三代実録 「令西大寺摂領西隆尼寺、此両寺、是高野天皇創建、以西隆尼寺 為西大寺僧等浣濯法衣之処也

2.2 備前西隆寺

 
岡山市西隆寺と百枝月との境にある古代寺院の廃寺跡は西隆寺廃寺と言われています。鎌倉時代に火災により焼失し、西隆寺鶯梅院のみ存続しています。 備前西隆尼寺と備前西大寺は対の寺院。

3 都西大寺の末寺展開の特徴

 
@ 僧寺と尼寺の同時展開
A 伽藍の塔の配置など国分寺の形式と同一。
B 僧寺と尼寺の隣合わせの建立が推測される
 
(南都)西大寺文書
元弘三年(1333)6月16日後醍醐天皇 西大寺末寺諸国散在僧尼寺并領事
 
 八尋和泉氏(九州歴史資料館)の教示 『九州 西大寺末寺の美術遺品』仏教芸術199号
 
4 南都西大寺と国分寺
 
@ 亀山院(1287〜1298)が、叡尊在世時代に19カ国の国分寺を南都西大寺に寄附する。(長門長府史料・長府史編纂会議 編)
 
A 後宇多院(1301〜1308)が信空(西大寺・第2代長老)の授戒に感激し60余州の国分寺を南都西大寺の子院とした
       (本朝高僧伝第59・大日本仏教全書103巻)
  南都西大寺は叡尊により暦仁元年(1238)から本格的な再興が始まりました。 蒙古襲来時に叡尊は異国降伏の祈祷を行い名声を不動のものにしました。 南都西大寺は叡尊、忍性の時代から国分寺と関係を持ち、13世紀末から14世紀初頭には国分寺を掌握しました。

 平安末期から鎌倉初期にかけて、国分寺に対する行基信仰や勧進聖のかかわりがあり、南都西大寺の僧侶が国分寺再興にかかわりやすかった。中世における南都西大寺と国分寺との関係は国分寺史の中でも注目すべきです。
 
  「後宇多院が60余州の国分寺を南都西大寺の子院とした」との記録の中に備前西大寺が含まれるのは当然です。
 
5 備前西大寺と備前国分寺
 
5.1 備前国分寺

 岡山市教育委員会の宇垣匡雅氏は、「備前国分寺は、平安時代に焼失後、規模を縮小して再建され戦国期近くに再び火災にあったらしい。」と説明されますが、一番重要な点は「
国分寺としての機能が維持・継続されていたか」です。
 
5.2 『1440年備前国西大寺勧進帳』

防州久河庄庄司の妻、皆足(人名)は藤氏。つとに志、薫発し、千手大士(千手観音)の像を肖安せんと欲すること、年久し。念(思い)を懇ろにし、感じる所、一日、○○童(わらべ)来る。仏工と号して彫創するなり。去るに臨み、藤氏、其の居を問う。工(たくみ)笑いて曰く。長谷は、我が仮の郷(さと)なりと云々。これまさに天平勝宝三年二月八日なり。藤氏、綵絵(彩絵)の素像を欲し、且つは長谷の尊者をねぎらう。船にて東す。時に庄司、備州の主簿に任じ、府第に在り
 

6 南都西大寺の末寺展開の特徴

 
6.1 寛永10年(1633)『西大寺諸国末寺帳』 59ケ寺
 
 本山西大寺と本末関係を結んでいる直末寺(じきまつじ)のみ記録しています。 直末寺は多くの末寺を持っていました。そのために、これらの孫末寺、曾孫末寺を加えるとかなりの数になります。
 
鎌倉末期〜南北朝期の西大寺教団の全国への拡大
 
6.2 西大寺末寺の特徴
 
 @ 朱印寺院(檀家を持たない)が多い。
 A 古来からの由緒ある寺院が多い。
 B 神仏習合の末寺が多い。

7 備中・備後・備前国の南都西大寺末寺
 
昭和43年11月の奈良国立文化財研究所発行
 
 『西大寺関係資料(一)牽引』と『西大寺本末寺衆首交名』により調査
 『西大寺末寺帳』五種のうち一番古いものが、1391年に書き改め1503年に交合
 

『諸国末寺帳 西大寺 二聖院』 251カ寺を記録。
 
@ 備中国 金剛寺・善法寺(ナリワ)・善養寺(ナリワ)・菩提寺(カルヘ)
A 備後イマ高野 大田庄 金剛寺・尾道 浄土寺・草出 常福寺(福山 明王院)
B 備州 浄土寺 「備州栄順房」
 
  備前国に浄土寺が二つある事実をご存知ですか
 
     @ 岡山市高島湯迫        笠持山 浄土寺       (本尊 薬師如来
  A 赤磐郡赤坂町西軽部笠口  笠寺山 浄土寺  持教院 (本尊 阿弥陀如来
 
   山号も、持と寺の違いのみです。
      一つの寺院が、二つに分割された貴重な事例です。
 
 

 

 

吉備温故秘録に、「西大寺にある古簡の内に、金岡本荘・金岡東荘・金岡西荘などといふあり。皆々文明(1469〜1486)頃の古簡なり」との注目すべき記録があります。金岡本庄です。
金岡本庄は、吉備温故秘録と昭和11年の岡山市史第2巻にのみ記録
されています。
吉備温故秘録に3通の金岡本庄に関する古文書があり、昭和11年の岡山市史第2巻にも3通記録されていますが、岡山県古文書集以後は、この3通は
金岡東庄に修正されています。
1322年の西大寺門前市場図(元享古図)に記録されている金岡四至が金岡本庄です。つまり「東庄」への修正は誤読です。
金岡本庄について考察しま しょう。

2 元享古図

元享古図に関する文献資料で調査しとたところ、2種類の 元享古図の写真を発見しました。元享古図の写しは2枚あります。2枚の写真を比較し違いを確認して下さい。

@ 備前国西大寺所蔵「
元享古図」「近世寺院門前町の研究」 平沼淑郎 昭和32年

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C 備前西大寺所蔵「西大寺観音院境内古図」岡山県古文書集 第三輯 昭和31年

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3 正式な古図名は何か

古図名は、2種類に分類されております。西大寺所蔵「古図」と「西大寺観音院境内古図」 です

@ 備前国西大寺所蔵「元享古図」  「近世寺院門前町の研究」 平沼淑郎 入交好靖編 昭和32年早稲田大学出版部

A 西大寺所蔵「古図」・・・手書図  「社会経済史学・第2巻第10号」 平沼淑郎 昭和8年

B 西大寺蔵「西大寺観音院境内古図」   岡山県史 中世U 岡山県史編纂委員会 平成3年 岡山県

C 備前西大寺所蔵「西大寺観音院境内古図  岡山県古文書集 第三輯 藤井駿・水野恭一郎 昭和31年 思文閣出版
   
D 西大寺蔵「
備前国西大寺観音院境内図」   県立博物館写真提供 岡山県史 中世T第4巻 岡山県史編纂委員会 平成3年 岡山県

古図に書かれている寺院名は、「西大寺清平寺」のみであり観音坊はありません。観音坊の初見は1600年であり、1322年には存在 を確認できません。備前西大寺古図であり、「観音院境内古図とする根拠はありません。岡山県史の明確な間違いです。岡山県古文書集以後、岡山県史が観音院境内古図と断定しました。

元享古図」の初見史料は、1803年成立の吉備温故秘録です。吉備温故秘録に「私曰、此書原今は無し、寺に蔵するも写なり」とあり、箱書に「往古境内四至傍至之写」左右に「西大寺観音院」とあり「私に曰、右図の表は書如此あり。」と 記録されています。

つまり観音院に蔵する古図に間違いありませんが、箱書きは観音院にて1803年までに書かれたものです。観音院は1322年には、存在 を確認できません。

4 金岡本庄

金岡本庄を伝えている3通の古文書は、岡山県古文書集の備前西大寺文書には記録されていません。当初は金岡本庄を伝える3通の古文書が、備前西大寺文書の調査までに紛失したと考えました。しかし、調査結果は
東庄へ誤読修正されていました。現在の備前西大寺中心地区には、本庄という地名はありません
備前西大寺の寺院史研究にとって一番重要な金岡本庄の位置が不明です。金岡本庄の位置の特定が寺院史解明の最重要事項であり、金岡庄と金岡本庄との関係について考察する必要があります。私は吉井川をさかのぼって本庄の現地調査を実施しました。

5 金岡本庄と東庄

奈良部義利氏から、原本は「東」として下記の指摘をいただきました。

『原本写真は旧版「岡山市史」に掲載されている。鮮明ならざる部分もあるが、同書自身の翻刻とは異なり「東」と読める。もとより「東」と「本」字はその崩し字が類似しており、以前の翻刻もそれにならったものと考えられるが、同文書中の他文書との内容比較からも、藤井・水野氏が記されておられるように「東」字からは動かない。温故秘録というのはテキストとして誤字・脱字が余りにも多く史料として引用するには余りに問題が多い。まさに「金岡本荘」の部分が、「間違い」の部分である。「恩故秘録」の編者自身が「本荘」と誤読していることによる。過去の文献にはそうした間違いがどうしてもある。』

私の見解はまったく逆です。『
吉備温故秘録は、江戸時代の他の地誌と比較して正確な記録であると高く評価します。誤字は字音仮名遣いであり脱字は正確を記す為です。』

6 金岡本庄の史料確認

昭和11年の岡山市史第2巻の「活字文」を確認しました。

@ 1211Pの記述は「備州金岡本庄諸御寺・・国松・三島跡等事」

A 1214Pの記述は「備州金岡本庄之内・国松名一分三島跡事」横に(東カ)とある。

B 1216Pの記述は「金岡本庄之内三島跡等事」とある。

備前西大寺文書中の1467・1468年の3通の古文書の「東庄」は、
藤井・水野氏の思い込みによる「本庄」の誤読です。古文書の読み下しにおいて一番怖いのが思い込みです。藤井駿氏は金岡東庄について多くの論文を発表されており、それだけに思い込みが強かったようです。

7 黄(貢)金布地、莫辱金岡之名

五山文学新集・第五巻・黙雲集収録の1496年の縁起には「
黄金布地、莫辱金岡之名、白梅送春、遠移梅岑之境」とあり、「金陵七百仏寺、緬壊法道盛時、錦里八九人家、忍見吾山陵替」と言う注目すべき記述があります。
岡山県古文書集には「貢金布地莫辱金岡之名」とあります。「黄金を敷きつめた飛び地、金岡本庄の名をはずかしむるなし」となります。
布地は切れ地、金岡本庄を意味しております。
「黄」と読むか、「貢」と読むかで、文章の 意味がまるっきり違ってきます。私は「貢」が正しいと考えます。つまり、本山である南都西大寺への上納金です。
金岡の名を辱めないように、門前市を開催して本山へ上納します。」との決意表明です。これが「正本在南都都」の意味です。

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8 備前福岡(大豆田庄)移転説

(南都)西大寺資財流記帳に780年(宝亀11)大豆田庄が在り、1191年(建久2)(南都)西大寺文書に豆田庄が在ります。

8-1 1278年の松中嶋と阿弥陀寺

山田寿子氏より「備前西大寺が備前福岡より移転したとの伝承」が福岡にあるとの教示を受け古文書を調査しました。
黄微古簡集(1792年)収録の「備前国福岡庄吉祥寺文書」の古図に「松中嶋」があります。

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「1278年の松中嶋」です。この図の位置は備前大橋の上流200〜300mの所です。
 「吉井の水門」の横位置となり、かって大量の五輪塔が出土したことが報告されています。奈良時代の海岸線は、現在の山陽本線の位置と推定されています。

備前西大寺
最古の歴史書である1440年勧進帳には「藤氏、府を過ぎて金岡の浦に於いて船泊まる。」とあり松中嶋の記録はありません。
歴史性が高いとされる漢文縁起である1496年(明応5年)備前国西大寺化縁琉并序(天隠龍沢著)にも松中嶋の記録はありません。
松中嶋の初見は1507年の備前国西大寺縁起です。「皆足金岡庄松中嶋といふ汀に舟をとどめ、府中にゆきて数日逗留しけり」です。
現在地周辺には「浦」と考えられる地形はありません。「金岡庄松中嶋」と1507年の記録では、
松中嶋のある場所が金岡庄であると明記されています。
「松中嶋は備前西大寺の近くにあり」
祖師信仰の地として1507年の縁起に記述されたと考えました。国松・三島跡が1278年の松中島の位置(吉井の水門の横位置)です。
額安寺が金岡東(本の誤読か)庄に作った阿弥陀寺(本尊・阿弥陀三尊)の記録が1279年〜1322年であり国松又は三島跡にありました。

8-2 松中島なる琴松庵

現在地に至る前に隠された松中嶋の歴史があります。大正9年発行の黄微史談『西大寺考』の中で沼田頼輔は重要な大正時代の伝承記録を残しています。「当寺所属の末寺は、今日存するもの千手院其他金岡村
松中島なる琴松庵等、・・・」です。
私が注目したのは「松中島なる琴松庵」という大正時代の伝承記録です。「琴松庵」は謎に包まれた寺院であり「琴松庵」に関する唯一の記録は、明治15年頃に書かれた西大寺村誌のみです。
「琴松庵」真言宗、本村観音院の末派なり。村の東にあり、創立永享2年(1430)月日不詳。開山宥長なり。
つまり松中島の代替寺院として1430年に旧西大寺北の町に備前西大寺中興の祖・宥長が「琴松庵」を設立しました。この記録の重要点は、1430年、つまり1440年備前国西大寺勧進帳の10年前の記録だという事実です。「琴松庵」は、江戸幕府の公的な資料、1791年(寛政3)の古義真言宗本末蝶第12にも記録されていません。記録では西大寺寺中六宇として観音院・円満院(末寺一宇・法幢院)・安楽院・持明院・普門院・千手院です。

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重要なのは1430年に「宥長」が、「松中島なる琴松庵」を再建したという事実です。

8-3 本城山

備前大橋の近くに、「本城山」という地名があります。この「本城山の周辺が金岡本庄」であると考え ます。

「本城山」のある寺山地区に、西大寺観音院の銅鐘(国指定重要文化財・918〜1392高麗時代)に関する伝承があります。「寺山の漁師が、近くの吉井川の川底より引き上げ観音院へ運んだ」というものです。観音院の伝承では、「釣鐘の発見地が金岡」とされています。

「都紀の里・西大寺の話・開山」の中で、当時の観音院皷義算住職は申し伝えとして「釣鐘が金岡庄の辺から上った」と証言しています。この重要な伝承者は小林毅氏(岡山県県会議員)です。吉井川の川下から川上へ、銅鐘が流れることはありえません。歴史上の金岡、つまり備前西大寺の創立地(大豆田庄)となります。一日市で西祖禅寺を研究されておられる久保益夫氏に、吉祥寺跡と松中島の現地を案内していただき、長船町史にて仏教遺跡であることを確認しました。銅鐘に関する伝承は、小林毅氏に情報元を確認したところ、「子供の頃に祖父より」とのことであり、山田寿子氏に「備前西大寺・備前 福岡移転説」の情報元を確認したところ「福岡で公演した時に聞きました」とのことであり、情報元は確認していないとのことです。

 

9 1322年・金岡本庄の四至(しいし)

9-1 1299年・天地大振動の謎

備前国西大寺縁起・永正本(1504〜1520)に、「正安元年(1299)つちのといのとし正月廿一日の夜、雷電しきりになり下て大地振動おひたたし、世界たたいまうせはてなんすとて、萬人驚合けるに、翌日廿ニ日の巳の刻に、天火降下ぬ」とあります。この天地大振動については、中世商業史の貴重な資料とされている1322年(元享2)の元享古図にも記録されています。「正安元年(1299)巳亥正月廿ニ日巳剋、雷電過法、天地大振動、其時炎上」です。
1299年と言えば2度の蒙古襲来が終わり、鎮西探題の活動が最も活発であった頃であり、西国と鎌倉、京都の間の往来は想像以上に盛んでした。
ところが鎌倉幕府の記録にも、都の公家の日記(たとえば、勘解由小路中納言日記(1268-1300)、管見記(1283-1523)、実躬卿記(1283-1307)など)にも備前ないしはその周辺で大地震があったという記述はありません。そのため理科年表の被害地震表にも記載されていません。
永仁7年4月25日をもって正安と改元されたので、厳密に言えば「正安元年正月」はありません。この点からも、引用されている記述は後世の解釈や誇張が加わっています。

中世商業史の貴重な資料とされている、1322年(元享2)の元享古図には記録上の問題点が2点あります。「年号の記載と天地大振動の記録」です。この2点は従来の研究者が見落としている元享古図の作成目的と作成年代を明確にする重要点です。

9-2 勧修寺の寺領・備前西大寺

私は、勧修寺家文書(京都市山科区勧修寺仁王堂町27ノ6)に注目しました。勧修寺の家領として1351年備前国和気荘があり、寺領として1336年備前国金岡荘内西大寺が記録されています。つまり、家領が和気荘であり
寺領が金岡荘内西大寺です。

勧修寺「家領」・1351年・備前国「和気荘」


勧修寺「寺領」・1336年・備前国「金岡荘内西大寺」


この1336年から、1440年の備前国西大寺勧進帳迄の100年間を空白の100年と考えます。1336年まで存在していた備前西大寺は、南都西大寺の直末寺の備前西大寺です。この100年間に、備前西大寺が本庄山のある寺山地区から現在地に移転しました。移転理由は、戦火による火災、吉井川の川流変遷、備前法華との関係が考えられます。

9-3 1322年・金岡本庄の四至(しいし)

1322年の元享古図に金岡四至(金崗四方傍示事)が記録されています。私の解読です。

東角御前限後→角山、南限海山陰→香登、西限非礼道祖→西祖、北限高橋→高橋(瀬戸内市長船町土師・高橋) 吉井川の下流に向かって右側が角山・西祖であり、左側が高橋(土師・高橋)とすれば海山は香登となります。

従来の研究者は、現在位置という固定概念があり位置の検討は実施されていません。東西南北はどこを支点とするかの検討が必要です。
私は1322年の元享古図は、1440〜1496年の間に書かれた古図と考えます。つまり、遠い昔を懐古しながら書かれたものです。

9-4 備前国福岡市と西大寺門前市場

現在の西大寺中心部において、1322年に市場は開催されていません。江戸時代の古文書に市場との記録があります。 これが現在地です。

この記録が1322年の記録であれば、一日市・ニ日市・四日市・八日市と言うような地名が西大寺中心部にあるはずです。
この地名が、残っているのは、備前大橋近くにある寺山の本庄山周辺です。そして1440年の備前国西大寺勧進帳につながります。
私の金岡本庄の四至の解読が正確であれば「一遍上人絵伝」に描かれた備前国福岡市が1322年西大寺門前市場となります。一遍が福岡に来たのは1278年(弘安元)です。

9-5 備前西大寺・初見史料の分析

岡山県内の古文書での初見は弘法寺文書です。
鎌倉時代1300年(正安2年)備前国弘法寺本堂供養請定です。『唄師 西大寺執行越前阿闍梨御房「奉」』とあります。

@ 唄師・西大寺執行とは執行委員長の意です。

A  他の参列寺院は、大賀嶋・熊山・豊原・有木・横尾です。

全て吉井川の左側の寺院であり、1300年の備前西大寺も吉井川の左側になければなりません。吉井川の川流変遷に注目しました。
昭和32年発行の吉井川史に小林久麿雄は備前の伝説として1346〜1355年の川流変遷説を紹介しています。「正平年中・足利尊氏が来って福岡城に留まりし時、特に命じて松苗を植えつけたもので、邑久郡豊村浜の浮根松は、上道郡雄神村まで続いていたさうだ。」とあります。
 

10 備前西隆寺と備前西大寺

称徳天皇の765年(天平神護元)に、南都西大寺の造営が開始され、その2年後の767年(神護景雲元)に、僧寺である西大寺と対になる尼寺として南都西隆寺の造営が始まりました。
この二つの寺院は対になっている寺院です。南都西大寺の末寺である備前西大寺は備前西隆寺の近くになければなりません。現在位置は離れすぎており、備前西隆寺の造営については、備前西大寺造営もあわせて考えるべきです。


11  南都西隆寺と南都西大寺

南都西大寺は766年(天平神護2)に、称徳大皇が行幸しているのが初見です。縁起には780年(宝亀11)「西大寺資財流記帳」に「それ西大寺は平城宮御宇宝字称徳孝謙皇帝、去る天平宝字八年九月十一日誓願し、将に七尺の金銅四王像を敬造し、兼ねて彼の寺を建てんとす。
乃ち天平神護元年を以て件の像を創鋳し、以て伽藍を開くなり(後略)(縁起坊地第一)」とあります。
造西隆寺司の任命によって始まった西隆寺の造営は、やはり称徳天皇の意向によるものと考えられ、それは造営の時期がほぼ重なるというのみでなく、西大寺が僧寺であるのに対し、西隆寺は尼寺であり、かつ位置も近接しており、両者はいわば一対になるものと考えられています。
すなわち東大寺に対し西大寺と名付られたように、尼寺である法華寺に対応するものとして、西隆寺が造営されました。
なお『東大寺要録』第1本願章1には天平字8年9月11日条に、西大寺の造営を記した後、「実忠和尚西隆寺別院を立つ」という記事かあります。
ここでも西大寺・西隆寺の建立を一体的なものと捉えています。

12  備前国分寺と備前西大寺

弘法寺と備前西大寺の一番大きな違いは、修正会で読み上げる神明帳の神社名にあります。 弘法寺は全国的に著名な神社であり、備前西大寺は備前国のローカルな神社ばかりです。この理由は備前国分寺が平安時代(11世紀)に火災により廃寺となり、備前西大寺が代替え機能を果たしていたからです。
寺伝に「防州久河庄庄司」「時庄司任備州主簿在府第」とあります。
山陽町教育委員会の宇垣匡雅主管は、
「平安時代に焼失後、規模を縮小して再建され戦国期近くに再び火災にあったらしい。」と説明されますが、一番重要な点は「国分寺としての機能が維持・継続されていたか」です。

@ 亀山院(1287〜1298)が、叡尊在世時代に19カ国の国分寺を南都西大寺に寄附する。
  (長門長府史料・長府史編纂会議 編)

A 後宇多院(1301〜1308)が信空(西大寺・第2代長老)の授戒に感激し、60余州の国分寺を南都西大寺の子院とした。
  (本朝高僧伝第59・大日本仏教全書103巻)

南都西大寺は叡尊により暦仁元年(1238)から本格的な再興が始められる叡尊は再興にあたって鎮護国家寺院としての性格を損なうことなく、その機能を継承しています。蒙古襲来時に叡尊は異国降伏の祈祷を行い名声を不動のものにしました。祈祷寺院としての南都西大寺は蒙古襲来を契機に再認識されました。このような機能を発揮した南都西大寺に為政者は国分寺を掌握させました。
南都西大寺は叡尊、忍性の時代から国分寺と関係を持ち、13世紀末から14世紀初頭には国分寺を掌握しました。
1330年代には諸国の国分寺の19カ寺が、南都西大寺の末寺になっています。
平安末期から鎌倉初期にかけて、国分寺に対する行基信仰や勧進聖のかかわりがあり、南都西大寺の僧侶が国分寺再興にかかわりやすかったようです。
その点において中世史における南都西大寺と国分寺との関係は国分寺史の中でも注目すべきです。
本朝高僧伝第59の「
後宇多院が60余州の国分寺を南都西大寺の子院とした」との記録の中に備前西大寺が含まれるのは当然です。

13 まとめ

@ 備前西大寺は大豆田庄より移転しています。1278年の松中島の位置、観音院の釣鐘伝承がそれを証明しています。

A 表裏記録の意味は、牛玉宝印の起請文と同一形態であり、本山・南都西大寺との誓約書です。「図と同一の寺院が再建できたならば、裏面記載の門前市場を開催して、本山へ上納します。」それが「正本在南都」・「1496年縁起の貢金布地の貢」の意味するところです。

14 おわりに

ご指導いただいた稲谷祐宣先生(備前長船 正通寺前住)、笹尾正道先生(真言律宗総本山 西大寺)、赤枝春夫先生(古筆学)に深く感謝致します。
琴松庵(岡山市西大寺中3-20)にて、平成16年7月に釈迦如来立像(鎌倉〜江戸初期佛)の台座より墨書が発見され、素晴らしい筆運びから空海の典籍『急就章』の流れの書と推定されました。

   

同時に1440年備前西大寺中興の祖・宥長坐像、阿弥陀寺初代住職・瀧春坐像(推定)が発見されました。

 瀧春坐像


参考文献
 

1 黄薇之友 第14号 黄薇史談 西大寺考 沼田頼輔 大正9年 黄薇社

2 吉備温故秘録 大沢市太夫惟貞 吉備群書集成 吉備群書集成刊行会

3 都紀の里 三浦叶著 西大寺愛郷会

4 岡山県史編年史料 岡山県史第19巻 昭和63年 岡山県

5 「備前西大寺地名考 備前西隆寺と備前西大寺:その地名の意味するもの」丸谷憲ニ 岡山民俗209 岡山民俗学会 1998年

6   岡山市史第二巻 昭和11年 岡山市役所 明治文献

7  吉井川史 藤井駿編 昭和32年 吉井川下流改修促進協力会

8  西隆寺発掘調査報告書 1976年 西隆寺跡調査委員会

9   岡山県古文書集第三輯 備前西大寺文書 藤井駿・水野恭一郎 1956年 思文

10 書道大字典下 伏見沖敬編 昭和49年 角川書店

11 日本荘園データ2 1995年 国立歴史民俗博物館

12 黙雲集 五山文学新集第五巻 玉村竹二編 1971年 東京大学出版会

13 備前国金岡荘の歴史について 藤井駿 1953年 吉備地方史

14   岡山市の地名 岡山市地名研究会 平成5年 岡山市

15 大和郡山市史 史料集 柳沢文庫専門委員会編集 昭和41年 大和郡山市役所

16 岡山県史第五巻 中世U 平成3年 岡山県史編纂委員会

17 長船町史 史料編(上)考古・古代・中世 平成10年 長船町史編纂委員会

18 大日本仏教全書第73巻 史伝部12 昭和47年 講談社

19 国史大辞典3巻 国史大辞典編纂委員会 昭和58年 吉川弘文館

20 江戸幕府寺院本末帳集成下 寺院本末帳研究会 昭和56年 雄山閣出版

 

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