2009/09/22

 澤田山 恩徳寺西方院 ・精神医学

岡山市沢田に備前国の名刹として知られる、沢田山恩徳寺西方院(沢田薬師)があります。
恩徳寺前方右手の山に
金蔵山前方後円墳(全長165m・古墳前期末・4世紀末〜中期初め・5世紀初築造)があり、前方左手の山に横穴式石室を持つ沢田大塚古墳(直径25m ・6世紀後半築造)があります。
金蔵山古墳から、
蓋飾り・鰭付き」円筒埴輪」が出土しました。蓋(きぬがさ)は、外出や行列の際などに貴人の頭上にさしかけたものです。長柄のついた絹張り傘のことです。
 

  倉敷考古館蔵  「蓋飾り・鰭付き

  


倉敷考古館で、初めて蓋(きぬがさ)飾りを見て感動を受けました。畿内(近畿)に「蓋飾り」の出土例は多い ですが、「鰭付き」の出土例は少ないとのことです。 金蔵山古墳は「蓋飾り付・鰭付」に特徴があります。巣山古墳(奈良県北葛城郡広陵町)でも両方が発掘されています。「百済大寺伝承地」の近くです。
蓋形埴輪と立飾り」は、大阪府八尾市の八尾北高校建設地の萱振遺跡(萱振一号墳)でも発見されています。
萱振遺跡
は縄文時代から鎌倉・室町時代に至る遺構、遺物がたくさん検出された大規模な複合遺跡で 古墳前期の古墳です。
萱振一号墳は一辺27mの方墳でこれまで河内平野で検出された方墳の中では最大であり出土した家形埴輪、「鰭(ひれ)付円筒埴輪、靫(ゆき)形埴輪の大きさ立派さから「物部氏一族の墓」の可能性が大きくなっています。


物部
(もののべ)氏は河内国の哮峰(現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖先と伝えられる氏族です。
河内国(かわちのくに・河州)は、かつて日本の地方行政区分だったの一つで、大国に分類され畿内に含まれていました。 その領域は現在の大阪府の東部にあたり、設置当初は南西部(和泉国の領域)も含んでいました。 区域ごとに北河内、中河内、南河内といい、北河内は現在の枚方市寝屋川市門真市守口市四条畷市大東市交野市一帯、中河内は現在の東大阪市八尾市柏原市一帯、南河内は松原市羽曳野市藤井寺市富田林市河内長野市大阪狭山市南河内郡堺市の東部一帯を指します。


恩徳寺操山公園里山センターの隣位置しています。沢田は岡山市中心部近くにあり、豊かな自然が今も残り、四季折々の植物・動物・野鳥等・森林浴・ハイキング・バードウォッチングなどにすばらしい所です。沢田は岡山の有名な柿どころでもあります。

恩徳寺は備前国府・高島を見守る四神相応の地にある寺院として知られています。和歌、俳句、絵画、写真を趣味とされる方には最高の景勝地です。

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〒703-8234 岡山県岡山市沢田 613 電話 (086)272-4843

開基・天平勝宝二年(750年) 三論宗(空宗) 本尊・薬師如来 (伝 行基菩薩作 等身大の薬師如来)

備前国では、日本に最初に伝来した仏教である三論宗(空宗)開基伝承寺院は少なく、備前国最古・白鳳元年673)法隆寺・智蔵上人(中国・呉国の出身)の開基伝承を持つ備前48ケ寺の庄田山朝日寺(瀬戸内市古号・加邉羅大通寺)が知られています。
「加邉羅(カピラ)」
とは、
インド共和国のカピラ城本宮殿のことです。直線距離で8キロ、ネパール(ルンビニ-県カピラバストウ郡タウリハワー町郊外、ティラウラコットと呼ばれる壮大な遺跡)の遺構は若き日の皇太子釈尊の夏の宮殿とされています。また、赤色・黄頭と訳されます。サーンキヤ(数論すろん)学派の祖とされる仙人の名前です。古代インド医学です。

狭川宗玄先生(東大寺元管長)のご紹介で、西山厚先生(奈良国立博物館)のご指導を戴きました。
 

   庄田山朝日寺由来記

 

南都西大寺と恩徳寺

中興・開山 
嘉吉元年(1441)逝去  越中(富山県) 禅興寺 教圓房 禅興寺( 廃寺 南都西大寺末寺)

真言律宗総本山・南都西大寺は、恩徳寺再興のために、新湊市三日曽根横町にあった禅興寺僧・教圓房を派遣してきました。曽根の禅興寺真言・律寺院として 、鎌倉室町時代を代表する著名な地方寺院です。曽根は、倉時代の門前町として知られております。
教圓房
『西大寺光明真言過去帳第一比丘衆首分 』に名前がある真言・律僧です。恩徳寺再興後、長門国(山口県善興寺(廃寺)を再興して おります。
 

恩徳寺霊場 行場御案内

恩徳寺本坊・不動堂・奥寺の霊場を巡り、操山自然休養林を廻峰行させて頂き、信仰と大自然に親しみ憩える霊場、廻峰行場をお参り下さい。遍路衣装もご用意しております。

備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録(金山寺文書・文禄4年・1595)による報恩大師の備前48ヶ寺中・第3番寺院であり、中国49薬師霊場 第8番札所 、備前薬師霊場第8番札寺院です。 薬師信仰で知られる古寺であり名刹として知られています。
 

参考リンク 操山公園里山センター
 
参考文献
 
日本の古代遺跡23 岡山 間壁忠彦 間壁葭子 平成7年 保育社

金蔵山古墳 西谷真治 鎌木義昌 昭和34年 倉敷考古館


四神相応

四神相応(しじんそうおう)は、中国朝鮮日本においての四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢地相のことをいいます。東に流水といった、西には幅の広い道路や大通りといった大道、南には周囲の土地よりも低 い湖沼など、北には丘陵が位置する土地のことを指します。四地相応ともいわれます。

方角      西      
四神  青龍   白虎   朱雀   玄武
地勢  流水  大道  くぼ地湖沼  丘陵

ただし 、この配置を四神相応としているのは現代では日本だけです。中国朝鮮の伝統的な風水における四神相応は背後に山、前方に海、湖沼、河川の水(すい)が配置されている背山臨水の地を、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいいます。この場合の四神は背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎です。

四神相応の例

日本の平安京・大宰府(倭京)、朝鮮の漢陽(現在のソウル)、江戸(現在の東京)が 、この地勢にあわせて造営されました。


白狐に乗る荼枳尼天

平成15年4月13日に本尊 薬師如来坐像(秘仏)が1934年閉扉依来、69年ぶりに御開帳になりました。

稚児行列に続き、島根県太田市の無形民俗文化財、多根神楽(
島根県三瓶町多根)が奉納されました。出雲神楽の優雅さと格調の高さ、石見神楽の勇壮豪快さの両者の流れをくむ神楽です。

picture365.jpg (129866 バイト)  前立 大神・白狐に乗る荼枳尼天     

 

真言密教では、荼枳尼天(ダキニテン)を「白晨狐王菩薩」と同一の「稲荷神」であるとし、白い狐にまたがる剣と宝珠を持つ天女として表現しています。
キツネと一体となった荼枳尼天は、主として東寺 ・真言宗によって広められました。

真言密教、荼枳尼天、狐、稲荷社は不可分の関係です。
江戸時代の神社、寺院、修験は、不可分の関係で、教義もその活動も独立したものではありませんでした。明治の神仏分離に際し、三者が共存していた 寺社の多くは、なんとか寺院として存続できるように努力しています。例えば、豊川稲荷は昔から寺 院であったと主張し運良く認められました。一方、秋葉山秋葉寺はいろいろ証拠を提出しましたが認められず結局、神社とされました。
このように、現在も残っている多くの「寺 院」は、神仏分離の際、神社にされる運命をあやうく免れたものです。

荼枳尼天

インドのシヴァ神の妃・パールヴァティーの化身の一つ、カーリー女神(黒き女神)の従者だった「ダキニ」は、昔生きた人の肝や肉を食べる「ヒンズーの魔神」でした。しかし、釈迦から生者の肉を 食べることを禁止され、死肉だけを食べるようさせられました。すると今度は一転して半年前に人の死を予期するとか、ダキニに自分の肝を捧げる約束をするとダキニが願いを叶えてくれるなどと言われるようになりま した。密教の加持祈祷には、荼枳尼(ダキニ)が願いをかなえる「荼枳尼天法」が真言にも天台密教にもあります。

真言は「オン キリカ ソワカ オン ダキニ ギャチ ギャカネイエイ ソワカ」です。

参考文献 天台密教の本 1998 学習研究社


由来概要

江戸時代初期に、澤田山恩徳寺山内に西方院・多聞坊・松之坊・松岳院・医王院の5院がありました。禅宗寺院・精神医学の病院として名高い澤田山・医王院は寛文六年(1666)岡山藩による寺院淘汰により廃寺となりました。岡山藩の寺院淘汰が実施されたのは寛文6(1666)年5月18日です。淘汰された寺院は583、残された寺院は461です。池田光政は宗教政策の第一弾として神社淘汰の指令を出しました。神社淘汰により、氏宮601社を残 し10527社が破却されました。

 寛文7年(1667)2月京都吉田家・吉田神道の証印を受けて、代官頭の配下である村代官の支配毎に1社の寄宮(よせみや)が建立されました。
沢田に残された寄宮 春日大明神のみで した。

備前国々中神社記(池田家文書)に、「春日大明神  (神主 藤村兵太夫) 御寄宮、寛文七年(1667)五月下旬御鎮座 神社合四拾社、内拾社者末社。右改書上之通少も相違無御座候、以上、延暦三年(1675)十月十七日 都築左衛門」とあります。春日大明神の記録は、・寛永7年(1710)の寺社留(池田家文書)にあります。

嘉永5年(1852)仁王門を残して西方院を焼失しました。この時、縁起も焼失してしまいました。明治10年(1877)に再建しましたが、明治4年(1871)に多聞坊を廃寺とし池松院を西方院に合併しました。

堅巌宮は岡山市沢田字古立石より、明治初年神仏分離に際して寺内に移転し現在に至ります。現存する主な建物は、安政4年(1858)に建築した客殿と庫裡、明治10年(1877)の本堂等・本社・山王社・龍神社・大師堂・鐘楼・観禅堂・山門・金祐大権現・七福神社があります。

   仁王門  

練札は無く、文化9年(
1812) の大般若転読法会の木札が上がっております。

           本堂

参考文献 
神道体系 神社編38 美作・備前・備中・備後国  昭和61年 神道体系編纂会 
寺社留(池田家文書)


恩徳寺・行聖と澤田筍

恩徳寺19代住職、行聖は嘉永5年(1852)の火災で荒廃した寺院を再興、農民への授産として寺林に竹林を造成し 、のちに「沢田のタケノコ」の 評価をえました。

参考文献 
「恩徳行聖」『上道郡誌 全』昭和48年 上道郡教育会


方位盤と太陽信仰
                                                

本堂天井に2メ−トル 四方の方位盤が填め込まれ、太陽と昇り下り龍、十二支の彩色画で知られます。方位盤が本堂天井に埋め込まれている寺院は岡山県では恩徳寺のみです。真言宗寺院でも珍しい ものです。
恩徳寺には磐座(いわくら)があり北緯34度39分の東西線上に位置し、太陽信仰寺院として知られています。
大和では三輪神社の祭神・三輪山が北緯34度32分の東西線上に並んでいます。根源は中国の嵩山(すうざん)にあ ります。恩徳寺 は、東向きに建てられ、高倉山の磐座に相対しています。本尊の薬師如来は東向の如来です。

御詠歌は「陽(ひ)の道(太陽の道)と、法(のり・仏法)とを結びし恩徳寺、神や仏も蓮(はちす)のみやま」です。

東西線に明禅寺・竪磐稲荷・恩徳寺が並び、南北線に、恩徳寺・幡多廃寺(赤田)・賞田廃寺(賞田)が配置されています。

太陽信仰の起源は、文明発祥の地メソポタミアのミトラ教にまで遡ります。ミトラ的要素を日本にもたらしたのは、中国・朝鮮半島経由ではなく、匈奴など北方の遊牧民です。地球は丸く、シルクロードよりも北を通る草原の道の方が距離的には近いのです。最近では、中国の漢王朝が匈奴の支配下にあったと考えられています。

参考文献 

岡山市立東公民館 平成5年度・青少年ふるさと教室 「上東平野条里地域の歴史-岩と神社などをたずねて」
朝日新聞 昭和56年10月29日 恩徳寺・本堂の天井方位を描く 黒住秀雄説
続 知られざる古代 龍王のきた道 水谷慶一


「冬至の日の出線」と「本堂背面の扉

 「冬至の日の出線」と磐座

冬至は二十四節気の一つで太陽暦の12月22日頃です。冬至の日の出は東南東30度の線上から昇ります。昼の長さが最も短く太陽の光が弱まり、万物の成長に危機が訪れると信じられていま す。太陽の復活を願う行事が世界的に行われました。中国では天子が冬至の日に天を祭る郊天の儀という儀式が行われていました。日本にこの儀式が移り、桓武天皇が延暦6年11月に、交野(かたの、交野市・枚方市)で天神を祭っています。玉・絹織物・黍を供え、牛の生贄を燔(や)いて儀式を執り行ったことが『続日本紀』に 記録されています。

恩徳寺の本 堂は太陽が昇る真東を向いています。高倉山から太陽が昇ります。古代の神祭は、「山麓のイワクラから神体山を拝む」ものです。聖なる磐座(イワクラ)を遥拝するため祭場のあった場所です。

本殿背面の扉

恩徳寺本堂背面に神仏の出入り口が設けられています。背面の扉を開けると竪巌最上稲荷の社殿があり、その上に磐座があります。
吉備津神社にも本殿背面に扉があります。

参考文献 
吉備の中山と古代吉備 薬師寺慎一 2001年 吉備人出版
岡山の神社 気ままめぐり 藤野薫 オセラ陽春号3-4 2007  オセラ第5巻第2号

 



恩徳寺不動堂・不動明王磨崖仏・竪巌宮

岡山市沢田字古立石

   旧 竪巌宮      沢田不動明王磨崖仏

竪巌宮(たていし)の建立地です。沢田不動明王磨崖仏で知られています。 像の左下に、エジプトの象形文字に似た文字が刻まれています。
竪巌宮
竪巌とは、「タツイシ」を意味しております 。姓氏家系大辞典に立石「タテイシ・タテイワ・タテシ・タツイシ」とあり、和名抄に「多天之」と註しております。

古代の日本人は、神の力をいただき神と共に暮らしていくために、神の降臨を仰いで祀ったのが自然の巨石や常緑樹などです。巨石を「降臨の御座所・依代」とみなして崇拝しました。そうした巨石は磐座(イワクラ)と呼ばれます。

「恒常的なカミマツリの施設」として元禄元年(1688)に竪巌宮が設置されました。1708年(嘉永5年)の記録では、「竪巌 庵」とあり、庵主は深海(〜1708)て ゛す。

参考文献 姓氏家系大辞典第二巻 太田亮 昭和38年 角川書店


竪巌最上稲荷と明治維新

   picture366.jpg (187142 バイト)      鳥居には「竪巌 尊」


竪巖最上稲荷は、 岡山城近くの「備州岡山片上町・久志屋吉太郎」が志願した鎮守です。備州岡山片上町とは、現在の中納言町です。
吉備温故秘録に「上片上町、此町は宇喜田岡山へ移られし後、片上の富家、志賀氏久志や□□といふ者を呼出し、初て此處に町作らしむ。
その出所の村名を取りて、片上町と名付るなり。さて此久志やが家は、其時建たる家のよし。今に居住し久志や善次郎といふ。
元は酒屋にてありしよし。」とあります。岡山城史には「志賀氏(家号は久志屋)宇喜田時代から居住しており、寛政のころにも久志屋善次郎が豪商であった。酒屋を営んでいたこともある。」と説明しています。
1632年頃の地図には町名の記載が無く、1648年頃には片上町、1674年には下片上町とあります。
市政提要の嘉永4年(1851)の記事に、上片上町名主久志屋吉太郎の名前があります。

竪巖最上稲荷の「正一位稲荷勧請の文書」を見ると、伏見稲荷本願所であった愛染寺から勧請された稲荷であり、その事例が少ないことが知られています。
これは、1868年(慶応4)3月13日明治元年10月18日迄に出された「神仏分離令 」の影響です。

恩徳寺の事例を確認しておきます。
本願所と呼ばれた愛染寺は、伏見稲荷社における社殿等の修造の際の本願人であるとともに勧進聖であり、社殿造営・修復・勧進・出開帳などを担っていました。

 

竪巌最上稲荷誕生・激動の明治元年(慶応4年)

江戸時代 1688年 (元禄元)  旧立石の地(岡山市沢田字古立石)へ竪巖宮を創立。
1852年 (嘉永5)  仁王門を残して西方院を焼失。
1862年 (文久2)

 恩徳寺、伏見稲荷社・権祝・陸奥守中津瀬忠勝に
『正一位 稲荷大明神』の神号依頼、金75両

明治維新の神仏分離と廃仏毀釈

明治維新  1868年1月3日
 (慶応3年・旧12月9日
 討幕派によるクーデター成功。王政復古の大号令発せられる。

 1868年(慶応4) 1月15日

  明治新政府成立。
           3月13日  祭政一致・神祇官再興を布告・神仏判然の沙汰

 神祇官のもとに全国の神社が付属することを宣言。
 神社が国民の戸籍を扱う国家機関のひとつと
 なりました。
           3月17日  神祇官事務局達

 神社を兼務している住職に還俗(げんぞく)を
 命じました。

           3月28日  太政官達

 従来の神仏混淆を廃止して神社にある仏像・仏具
 の撤去を命じました。

           4月24日  太政官布告

 神仏分離令(神仏判然令)
 
 神仏分離令とは、慶応4年(1868年)3月13日から
 明治元年10月18日までにに出された
太政官布告、
 
神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称 。

 明治以前の修験道などとの神仏習合を禁止し、
 神道仏教の境の明確化(神仏分離)。

 神仏分離令をきっかけに廃仏毀釈運動がおこり、
 各地の寺院や仏具の破壊が行なわれ ました。

恩徳寺と伏見稲荷社の対応

明治維新  
 
 伏見稲荷社
   
 1868年(慶応4) 4月        
 
 伏見稲荷にも明治政府による神仏分離の触書が
 到来 。
 稲荷社社中は愛染寺住持・舜雄を呼び、社頭在来の
 諸堂と愛染寺内の二堂を即時取払うように指示。
 3ヶ月後に稲荷山の神仏分離は完了。
 恩徳寺

 1868年(慶応4) 4月吉日

          

 
 堅巌宮は、伏見稲荷社・日本稲荷惣司・愛染寺住持・舜雄より『正一位 稲荷大明神』神階授与。 

 堅巌宮は岡山市沢田字古立石より、恩徳寺本堂後の高台に堅巌最上稲荷として奉建移転 。

 恩徳寺では愛染寺からの勧請証書を密かに隠す必要   
 に追られていました。
 廃仏毀釈後、稲荷祭祀者にとって、愛染寺の
 勧請証書を公然と人前に出すことは不可能でした。

 岡山県史には「岡山の地域では全般的に平穏であり、  
 そのような騒動を物語る史料は見つかっていない。」
 とあります。
 「史料が見つかっていない」から平穏というのは、
 如何でしょうか

 
単に保存していなかっただけだと考えます。
 明治の史料も明治初年は発見されておりません。
 

 伏見稲荷社   月不明  舜雄は、蔓延6年(1859)に愛染寺住持となり、
 明治元年(1868)に還俗し愛川民部と改名 。
 (祠官補佐表・其四)
 1871年(明治4)
 


 明治3年(1870)奉納の洋服縫製店の絵馬があります

 恩徳寺は、多聞坊を廃寺とし、池松院を西方院に
 合併。

「寺領上知(じょうち)の令」 全寺社領の官有地化
古来よりあった寺の領地を全て取り上げ、経済的な面から寺を追いつめました。
古い大寺ほど徳川家を始めとする大名家から寄進を受けていました。
古都奈良の寺や全国の由緒ある寺が一気に食べていく手段を失ないました。
そのため、寺は内部から崩壊して、神職に走るものや仏像や寺宝を持ち出すものなどが後を絶たなかったといわれています。多くの美術品の流失が始まりました。

「神仏判然の沙汰による過激な廃仏毀釈の動き
権現、明神、菩薩などの仏教的な神号を廃止すること、神社から本地の仏像を取り除き仏具を神社に置くことが禁止されました。
この政策は仏教を廃し、釈迦の全てを否定して壊す「廃仏毀釈」となり、これまで、僧侶の下に置かれていた神官が政府の威をかりて廃仏毀釈に走りました。
明治3年から4年にかけて頂点に達しました

政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行ないましたが、明治5年(1872年)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となりました。

 1877年(明治10年)  西方院再建
明治時代  1880年(明治13年)  2月20・21・22日付の山陽新報 論説「宗教排斥論
 1881年(明治14年)

 

 

 
 
 1882年(明治15年)

 山陽新報・1月13日に 恩徳寺西方院会陽の様子紹介。参詣は数千人。


 
神官は葬儀に関与しないことになり、神道非宗教説に立つ国家神道が成立

 1886年(明治19年)  2月9日付・山陽新報 社説「会陽廃止論

 「会陽の世風よ害あるや人の知る所なり然れども荏能今日に至て未だ其の禁制あるを聞かざりなり之れを惜むべしとなす頃日琴峽漁史より会陽速やかに禁止すべしとの趣旨にて・・・」

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  1892年(明治25年)

 2月24日に会陽を執行。(山陽新報・明治25年2月17日)



祭神は伏見稲荷大社と同一の、
宇迦之御魂大神(保食神)・佐田彦大神(猿田彦大神)です。
ご利益は同一の
商売繁昌家内安全交通安全厄除・開運招福・入試合格・学業成就・大漁満足・海上安全・良縁・心願成就・初宮・旅行安全・安産・子授・病気平癒七五三詣』です
伏見稲荷大社 宣楊部 鳥居南正紀先生にご指導いただきました。

愛染寺よりの授与は伏見稲荷社としての正式な授与であり、現在も有効 」です。
伏見稲荷大社
同一ご利益竪巖宮でお受けできます。お参りください。

大正13年(1924)発行の西大寺鉄道 名所案内(西大寺鉄道)に、竪巖最上稲荷が紹介されております。

参考文献 榎本直樹著 『正一位稲荷大明神』 評者・大森恵子 日本民俗学216 98.11
       稲荷社の分祀について 梅田義彦 民衆宗教史叢書 第三巻 稲荷信仰 直江廣治編 昭和58年 雄山閣出版
       伏見稲荷の勧請証書 正一位稲荷大明神 稲荷の神階と狐の官位 榎本直樹 平成9年 岩田書院
       稲荷信仰と宗教民俗 大森恵子 平成6年 岩田書院
       稲荷信仰の研究 五来重監修 昭和60年 山陽新聞社
       伏見稲荷大社 上山春平 日本神社総監 平成4年 新人物往来社
       京都・山城寺院神社大辞典 1997
       伏見稲荷大社 祠官補佐表・其四
       明治維新の神仏分離と廃仏稀釈 森亘男 かいづかNO.58 2001年3月 市川博物館友の会会報
       第四節 文明開化と宗教 一 開化政策と神社 岡山県史第十巻 近代一 昭和60年 岡山県
       吉備温故秘録 吉備群書集成六 昭和45年 歴史図書社
       岡山城史 昭和58年 岡山城史編纂委員会 岡山市
       岡山市の地名 平成1年 岡山市地名研究会 岡山市

参考リンク 伏見稲荷大社

 


竪巖宮奉納・「大太刀 義正」

竪巌最上稲荷に奉納された岡山県下最大級の大太刀(長さ132.5、返り4.2cm)があります。現在、岡山県立博物館 に預託されており定期的に展示されます。
刀匠は大村甚右ェ門義正で茎棟に「同国 岡山森下町住人・大村甚右ェ門義正 廿六歳剛之」 の銘があります。また、刀身には、「奉納最上正一位竪巖宮」と彫刻されています。江戸末期 の作ですが、使用されている地鉄は古く素晴らしい大太刀です。

恩徳寺大太刀は、長船町史・刀剣編通史に「日本を代表する大太刀」として紹介されております。

岡山県立博物館 の展示時の説明内容をご紹介します。

     
 

江戸時代の岡山城下の刀匠としては、正成・政次・正盛・正吉の系譜が知られています。 臼井先生は、義正を岡山城下の刀匠とされています。
その系譜に繋がる刀匠 であれば記録があるはずです。

田井住職様は「備前焼(伊部焼)では無い。虫明焼だと考え調査するように」 つまり、「備前刀では無い。大村甚右ェ門義正他国の刀匠であり、池田家の依頼により恩徳寺奉納の一刀の作刀の為に、他国より岡山へ呼ばれた刀匠である。」と教示されます。現在までの調査では、詳しいことはよくわかっていません。

平成18年3月12日、佐藤寛介先生(岡山県立博物館)、川崎泰先生(備前長船刀剣博物館館長)、植野哲也先生(備前長船刀剣博物館)のご指導を戴きました。

参考文献  岡山県教育委員会・銃砲刀剣類登録証
       日本刀備前伝大観・岡崎譲 1975 福武書店
       日本の刀 その美と変遷 備前刀・備中刀を中心として 1993 岡山県立博物館
       長船町史・刀剣編通史 平成12年 長船町史編纂委員会 長船町


恩徳寺と山王大権現

恩徳寺には鳥居が有り神仏習合の寺院で す。神仏習合とは、文字通り「神と仏が重ね合わさる」ということです。
仏教が伝来以来、日本の神と仏教の仏が交わり融合していった状況を言います。岡山県神仏習合 は真言宗の両部神道が多いようです。

恩徳寺は報恩大師 の備前国48ケ寺(金山寺文書・文禄4年・1595)の第3番寺院で す。
備前48ケ寺は全て天台宗であった」の説があり 、吉備温故秘録(1799〜1803)に恩徳寺  真言に改宗・本尊も薬師に改むと明記されております。
恩徳寺に山王大権現が祭られております。
山王大権現は、天台宗の開祖・最澄が比叡山を開くにあたり、比叡山の麓に祀られていた大山昨神(おおやまくいのかみ)に大三輪神(おおみわのかみ)を勧請して日吉三王(ひえさんのう)と称し、それが山王一実神道(さんのういちじつ)の始まり です。

古代インドには、釈迦が最高の教えである法華経を説いたという霊鷲山山王説(りょうずせん)があり、「法華経を広めるところには必ず山王が現れて、それを守護する」という信仰です。
天台宗の根本経典が法華経です。山王一実神道は、
両部神道と並ぶ仏教神道です。天台神道とも言われます。
竪巖宮の呪符に 「竪巖宮 奉唱 妙法蓮花経 家内安全」とあります。「法華経」です。

   

「山王大権現と竪巖宮呪符により、天台宗から真言宗への改宗」が証明されました。仏教神道は明治維新の廃仏希釈まで続きました。

「権現」には、3説あります。私は「江戸時代、徳川家康の尊称」に注目しました。恩徳寺と徳川家の関係です。

@ 
仏が衆生を救うために、神・人など仮の姿をもってこの世に現れること。また、その現れたもの。権化。
A 特に神道(しんとう)の本地垂迹説において、仏が衆生を救うために日本の神の姿となって現れたとする考え。また、その現れた神。
B 江戸時代、徳川家康の尊称

薬師如来の前の本尊は「地蔵大 菩薩」です。心木に「地蔵大菩薩」 とあり、現在の恩徳寺にはありません。祖師信仰です。

参考文献 神道の本 八百万の神々がつどう秘密的祭祀の世界 1992年 学習研究社


恩徳寺奥寺・大師堂と龍王池

岡山市沢田字龍王

龍王池のほとりに大師堂があります。弘法大師が京都神泉苑で八大竜王に祈って雨乞いを し、雨を降らせたという説話によるものです。

古来から干ばつの時には、「請雨経(しょううきょう)」をあげ、龍王を供養し雨を降らせました。
八大龍王は、釈尊が霊鷲山(りょうじゅうせん)で法華経を説かれた時、その場で教えを聞いており、また、沙竭羅龍王の八才の娘が、法華経の教えを聞いてたちどころに成仏したという話は、龍女成仏として 知られています。
龍王は大海に住んで、雲を呼び雨を降らせる神力をもっていると考えられ、祈雨や止雨の祈願の神として信仰を集めています。
その中でも沙伽羅が雨乞いの神として深く信仰されました。
また八大竜王は役行者とも縁が深く、埼玉県秩父市の今宮神社や奈良 県天川村の龍泉寺は、役行者が八大竜王を祀った地であるとされています。
梵名をナーガといい、海中や水中に住む架空の動物で竜宮(王の都)は海底にあるといわれています。
インドではナーガは雨を司る大蛇でしたが中国、日本では龍と同一視されています。

  難陀竜王      なんだ     海洋の主。頭上に9匹の竜、右手に剣、左手は腰。
  跋難陀竜王    ばつなんだ  難陀の弟。頭上に7匹の竜、右手に剣。左手は空中
  娑羯羅竜王    しゃがら    天海に住む。雨乞いの本尊である。
  和修吉竜王    わしゅきつ   水中に住む九頭竜。
  徳叉迦竜王    とくしゃか   この竜が怒って人を見るとその人は死ぬ。
  阿那婆達多竜王 あなばだった 雪山の池の中の五柱堂に住む。
  摩那斯竜王    まなし     阿修羅が海水で喜見城を攻めた時その海水を戻した
  優鉢羅竜王    うはつら    青蓮華の池に住む

雨乞いの時は娑羯羅竜王あるいは八大龍王を本尊とし、特に釈迦が八大龍王に説法している絵を筆の速い絵師に描かせながら、蛇を支配するのは孔雀ということで孔雀経が読まれたりします。
釈迦誕生にあたり、難陀、跋難陀龍王が空から釈迦の体を清めたお姿がインドの古跡にあります。

龍王伝説、盤牛(ばんご)大王説話にもあります。

原初の世界に盤牛大王が出現した。その身の丈の大いなることは、十六万八千由膳那であった。
盤牛大王は、その円い頭を天となし、方形の足を地とした。またそそり立つ胸を猛火とし、蕩々たる腹を四海となした。
この世界の中で盤牛大王の体から生じたものでないものは、何一つとしてなかった。

盤牛大王の本体は龍であり、盤牛大王は、その龍形を広大無辺の地に潜ませている。

ホキ内伝巻二(三国相伝陰陽カン轄ホキ内伝金烏玉兎集)の注釈書である「ホキ抄」によれば、この「ホキ内伝」は、大唐の伯道上人が文殊菩薩から授けられ遣唐使・吉備真備が日本に持ち帰り安倍晴明に伝えたとされています。

参考文献 安倍晴明占術大全 『ホキ内伝金烏玉兎集』現代語訳総解説 藤巻 一保 2000年 学習研究社 


大般若転読・大護摩供・火渡り祈願祭

      素足の火踏み行事 

大護摩祈祷会です。2月1日 午前9時30分〜11時まで

全ての煩悩を焼き尽くし、清めの炎は心暖かく揺れる。

ことし一年の平和と無病息災、家内安全、厄除けを祈願するため、たくさんの参詣者で境内は埋め尽くされます。

山伏が参加せずに、「僧侶のみで実施」される大護摩供は恩徳寺のみです。全国的に注目されています。

平成19年2月1日の大護摩供には驚きました。煙・火の形、色、素晴らしいの一言でした。


狐付絵馬と精神医学

本堂に珍しい狐付絵馬があります。岡山県では精神医学の絵馬は恩徳寺のみです。

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医王院・寛文6年(1666)亡所仕古寺書上帳・寺社留

備前記(1717年)に「此住持狐付を落す事其隠なし」という注目すべき記録があります。「狐付を落す」というのは、澤田 山医王院が「精神医学の病院」だったということです。現代医学では精神科・精神内科担当の寺院でした。1666年に廃寺になった禅宗寺院・医王院の ことです医王とは、釈迦のことです。

精神医学の仏典は、下記が現代医学に対応しています。

@ 北本涅槃経11 A 心地観経6 B 大涅槃経451 C 榜厳経8 D 首榜厳経E 菩薩地持経6 
F 維摩経中、治禅病秘経 G 金光明最勝王経 H 大悲心陀羅尼経 I 善見律11 J 准堤経 
K 十誦律2・28 L 華厳経48 M 涅槃経16・19 N 中阿含経6 O 雑阿含経5・6 P 摩訶僧祇律 

岡山藩・池田光政は宗教政策として寺院淘汰 を実施しました。寛文6(1666)年5月18日です。
淘汰された寺院は583、残された寺院は461です。
池田光政の向儒廃仏思想により、「精神医学の病院であった医王院は狙い撃ち」にあいました。
徳川幕府からは異例な「極端な政策をとらぬようにという警告」が出されましたが、光政は完全に無視し「恐るべき弾圧が加えられた」そうです。
光政の 学んだ学問では精神医学が理解できるはずがありません。「狐付を落とす」という迷信のレベルです。

密教医学はチベット密教医学として体系化され現代に至っています。
「狐付を落とす」とは、「霊の憑依」による精神病治療です。密教医学では、『「風」体液が関係し、その「風」が生体中にネットワークを形成している「脈管」を循環して生理機能を狂わす』と考えています。
密教医学では、心と身体を分離して考えるのではなく全て一貫して仏教思想と一体になって考えます。

代表的な密教医学の陀羅尼としては、「能浄一切眼疾病陀羅尼経、仏説療痔病経、仏説呪経、仏説呪経、仏説呪時気病経、仏説呪小児経、等が知られています。

参考文献 

寺社留(池田家文書)
寛文6年
(1666)亡所仕古寺書上帳(池田家文書)
歴史と伝統を持つチベット密教医学 二本柳賢司 平成6年1月22日 中外日報 高野山大学のご指導を戴きました。


恩徳寺の舶来御仕立絵馬

明治3年(1870)奉納の洋服縫製店の絵馬があります。狩野派の絵師・雲琴の落款があります。中央に「舶来御仕立 江戸四ツ谷・大和屋徳兵衛」の大看板が掲げられています。明治初期に、ミシンが日本に10台もなかった時代に、その1台が岡山にあったわけです。まさに舶来絵馬です。

参考文献 幡多ニ千年の歩み 幡多幡多ニ千年の歩み編集委員会 平成8年 幡多学区連合町内会


恩徳寺西方院 ・会陽

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恩徳寺に会陽伝承寺院の中では最も立派な御福窓があります。
本堂 が建築 された明治10年(1877)に会陽が実施されていたためです。

山陽新報・明治14年1月13日に会陽の様子が紹介されています。参詣は数千人とあります。

 

明治25年は、2月24日に会陽を執行しています。(山陽新報・明治25年2月17日)

 

 明治時代の心木です。材質はアオキ て゜した。 

          

「大きな葉っぱ」が付いています。植物学の難波早苗先生が、「アオキの葉 」 と特定されました 。「大きな葉っぱ」が発見されたのは、恩徳寺・瓶井山禅光寺安住院・南斗山金舗寺普門院3ケ所です。過去の会陽研究論文・会陽紹介には、葉っぱについて記載されているものはありません。
私が初めて発見し初公開しております。この「大きな葉っぱ」の発見が「仏教医学説」の原点です。

陀羅尼助
(だらにすけ)には、アオキの葉のエキスが成分として使用されています 。 

心木に
地蔵大菩薩とあります。しかし、現在の恩徳寺には地蔵大菩薩はありません。
私は
祖師信仰と考えます。つまり、薬師如来の前の本尊は地蔵大菩薩でした。何らかの理由で、薬師如来に変更しました。
 

和漢胃腸薬 「陀羅尼助」 大和國当麻寺中之坊より

アオキの薬効

陀羅尼助の効能として、外用薬としての効果が説かれているのは当麻寺中之坊のみです。
現在でもオウバク成分を用いた目薬が売られており、オウバクは目薬としての効能があります。
特に当麻の陀羅尼助に外用薬としての薬効が説かれるのは、オウバクと共に用いられていた「アオキ」による ものです。
オウバク を用いない胃腸薬は「陀羅尼助」とは呼べません。オウバクと共に用いられる薬草は生産地によりバラバラです。
「当麻の陀羅尼助」には「アオキ」が用いられていました。
アオキを用いるとツヤのある美し く黒光りする「陀羅尼助」に仕上が ります。
アオキには「火傷、腫れ物、凍傷」に対する薬効
が認められています。
外用薬による効果はここから来ています。
アオキは美しいツヤと共に、外用薬としての効果を加える「当麻の陀羅尼助」の名脇役 なのです。
 


恩徳寺角筆文献

広島女学院大学・日本文学科の柚木靖史先生により 、平成4年12月〜平成6年12月の恩徳寺蔵書調査 にて角筆文献三十八件発見されました。

毛筆と並んでもう一つの古代の筆記具が「角筆(かくひつ)」と呼ばれる用具です。角筆は、箸一本の形で、長さが二十四糎余(小尺の一尺)を基準としました。象牙・竹・木で作り、一方の先端を削りとがらせ、この先端を古代紙の紙面に押しあて紙を凹ませることによって、文字や絵を書きました。
鉛筆が日常的に使われるようになるまでの毛筆が専用された時代における、もう一つの筆記具であり、いわば鉛筆のように私的なメモ的な場に主として用いられました。鉛筆は黒鉛の迹が黒く残るのに対して、角筆は凹みだけですから“色”が付きません。
そのため、今まで古文献の研究者から見逃されてきたものです。角筆の遺物は、木製、象牙製、竹製それぞれが発見されています。
角筆で紙面などを凹ませて文字や絵を書いた古文献は、平成8年2月現在で、1694点が日本全国から発見されています。

角筆文字については、下記のサイトにてご確認下さい。

「ポインタを画像に載せたら、角筆文字が浮かび上がります。」

角筆文献目録(1999年版) 小林芳規 編

 岡山市沢田恩徳寺の文献調査
広島女学院大学論集総目次 第44集(恩徳寺蔵 真聞記について)
角筆文献目録No.10(第901〜1000)

蔵書の墨書から、江戸時代に恩徳寺における文献収集・経義研究が明らかになりました。特に江戸時代から明治にかけての恩徳寺学僧・行聖・行完の活動には注目されます。

恩徳寺蔵書目録 柚木靖史編 1997年 広島女学院大学発行は岡山県立図書館・岡山市立中央図書館・岡山大学図書館・就実大学図書館・ノートルダム清心女子大学図書館・岡山県立博物館と江戸時代に 恩徳寺と関係の深かった護国山曹源禅寺・大瀧山福生寺蔵 書となっております。 ご利用下さい。


恩徳寺・瓦経

瓦経(がきょう)とは末法思想の流行した平安時代末頃を中心に、仏法の途絶える末法の世まで経典を残すために経典を瓦のような板状の焼き物にしたものです。
瓦経の発見は貴重であり、岡山県では
備中国倉敷安養寺裏山経塚出土の瓦経 213枚が知られています。
浅原安養寺(倉敷市浅原1573・990年 開基)です。
瓦経(がきょう)の願文に応徳三(1086)年春二月於安養寺」との年号があります。
全国的には、播磨極楽寺瓦経塚・常福寺所蔵 国指定重要文化財 (東京国立博物館寄託)瓦経500枚が知られています。
彫り込まれた願文により、僧禅恵によって天養元年(1144年)に経塚が築かれたことがわかります。
胎金山大日寺(
鳥取県倉吉市桜345・天台宗 ・開基・承和8年(841)・円仁)の大日寺経塚からは、法華経などの経文を刻んだ瓦経427枚出土しています。
瓦経には延久3(1071)年の年号があり、制作年のわかる最古の瓦経です。

岡山市内では、恩徳寺近くの賞田廃寺瓦経(法華経巻六)が知られています。賞田廃寺は「上道氏」の氏寺といわれる古代寺院で、飛鳥時代 開基と考えられる吉備最古の寺院の 一つです。賞田廃寺は飛鳥時代から白鳳、奈良時代を中心とする寺院であり中世まで存続していたことを示す資料です。

恩徳寺瓦経 ・2種・3枚発見

恩徳寺では、瓦経 が2種・3枚 発見されております。これは恩徳寺 が奈良時代開基・平安時代に存在していたことを証明する一級史料です。

@ 和田千吉氏発見・石田茂作氏確認「法華経書写

A 1枚の瓦経から賞田廃寺瓦経(法華経巻六)と同一の「法華経巻三」の 書写が発見されました。

B 大本琢寿氏が恩徳寺宝蔵より瓦経硯を発見し、石田茂作氏が確認。
梅原末治氏が1950〜1951年に手拓。大きさ 21.2×26.7×1.2cmであり、経文と筆者は「初金剛頂 上之十 僧栄淳」とあり瓦経としては本格的なものです。
網干善教氏は1979年の南都仏教発表論文「奈良国立博物館藏を主とする瓦経の復元」の中で「
石田茂作氏旧蔵・伯耆大日寺出土」と紹介され、「初金剛頂 上之十 僧栄淳」とあるが「全く同一人のものが鳥取県立博物館蔵の大日寺出土品にあり筆跡も同一である。したがって栄淳なる僧は秘密三経を書写している沙門であり、同時にこの瓦経は大日寺出土のものであることが確定する。」と報告されています。
間壁忠彦先生により、1980年に奈良国立博物館藏の瓦経が、恩徳寺旧蔵であることが確認され今野沙貴子先生により追確認されました。
1973年の奈良国立博物館新館落成記念の展示図録「経塚遺宝展」 の陳列物解説末尾に「この瓦経については備前幡多沢出土とする説もある」と記されているそうです。


瓦経であり、恩徳寺と大日寺との交流記録の物証ですが、私は平安時代に天台宗寺院であった恩徳寺を
伯耆大日寺の僧栄淳が訪問した時の手土産ではないかと考えております。

南北線に、恩徳寺・幡多廃寺(赤田)・賞田廃寺(賞田)が配置されています。

参考リンク

奈良国立博物館

瓦経(法華経)(大日寺経塚出土品) 大日寺経塚出土 平安時代 11世紀 写真は 未公開。恩徳寺瓦経です。

倉吉市大日寺瓦経

岡山市埋蔵文化財センター賞田廃寺の瓦経

参考文献 

瓦経に就いての二三の覚え書 梅原末治 1952 史迹と美術 22-2 
瓦経の研究 石田茂作 1958 瀬戸内考古学 3号  
奈良国立博物館藏を主とする瓦経の復元  網干善教 1979 南都仏教 42    
備前沢田、備前田中、備後西国寺の瓦経をめぐる 間壁忠彦 1993 潮見浩先生退官記念事業会 広島大学文学部考古学研究室


恩徳寺の初見

「澤田山 恩徳寺・西方院」の初見は、文禄4年(1595)です。澤田山恩徳寺・西方院所蔵の宇喜田秀家文書(火災焼失)です。
吉備温故秘録(1799〜1803)に『澤田寺寺領之事 一、高三十石也 上道郡澤田村内 右内 一石八斗は屋敷定米 二十八石二斗は田畠 右如書付、田畠上中下を引合、澤田寺本願可相渡、然間、代官高内引く、相残高辻を以、可遂算用者也。文禄四年十二月吉日 秀家 浮田弥三郎どのへ』とあります。
黄微古簡集にも収録されています。
備前記 (1700〜1704)に、『沢田村 村中に真言宗 恩徳寺と云う寺あり。本尊薬師、「
此住持狐付を落す事其隠なし」(寺中二軒 松之坊・多門坊) 村東に寄せ宮・春日大明神あり 』とあります。

  寄宮・春日大明神     御領内寄宮記(1666)

 

和気絹 (1709)に『四十八ケ寺として「上道郡・沢田寺」(私云、備前国中に有之、当時天台・真言・日蓮宗に改宗し、三十ケ寺余今に有之)』とあります。
備陽記 (1721)に『真言宗 「沢田山 恩徳寺・西方院」 沢田村之内にあり。
本寺 「高野山随心院」
 本尊 薬師 寺領高 七石 御免帳立 「寺中二軒 池松院・多門坊」  』とあり、『
松之坊が池松院に名称変更』しています。

  寛永元年(1704) 多門坊    

 

寛永7年(1710)の寺社留に「松岳院」の記録があります。

   寛永7年(1710) 松岳院

  正徳5年(1715) 寺方留の記録

「澤田山西方院建石替地願・但寺社地面之部に有之」との記録が社寺奮記・上道郡・邑久郡・巻之三(池田家文書)にあります。

参考文献  御領内寄宮記(1666)(池田家文書)
       備前記(1700〜1704)
       和気絹(1709
       備陽記(1721)
       吉備温故秘録(1799〜1803)  吉備群書集成刊行会 昭和6年
       社寺奮記・上道郡・邑久郡・巻之三(池田家文書)
       黄微古簡集 寛政5年(1793年)
       寺社留(池田家文書)
       
寺方留(池田家文書)


本寺 「高野山随心院」

   古義真言宗 本末蝶 第十二 備前国古義真言宗 本末帳 

備陽記 (1721) に『真言宗 「沢田山 恩徳寺・西方院」  ・・・本寺 「高野山随心院」とあります。
古義真言宗 本末蝶 第十二 備前国古義真言宗 本末帳に
「高野山随心院末」とあり 「寛政三年(1791)辛亥十二月 集議中」とあります。

徳川幕府は6回、各宗本山へ末寺帳の提出を求め、この史料は古義真言宗本山より江戸幕府・寺社奉行へ提出されたものです。
6回とは、@ 寛永9年(1632) A 元禄5年(1692) B 延享1年(1744) C 天明(1781)〜寛政年間(1800) D 天保5年(1834) E 天保10年(1839) です。この中で、寺院史研究・調査に必要な史料は、天明(1781)〜寛政年間(1800)の史料に記載されている『分限書上・寺院明細帳』です。

『分限書上・寺院明細帳』は、徳川幕府が「寺院の由来書・開基・開山・開創年代・本寺・歴代往持名・朱印の有無・寺領・境内・境外・堂宇などを細かく書上げさせ中本山が必要部分を書取り」大本山に提出し、大本山から幕府寺社奉行に提出しています。
しかし、高野山随心院は廃寺となり、記録は高野山大学図書館にも残されておりません。本寺とは本山のことです。

『分限書上・寺院明細帳の写し』地方の中本寺、または池田家・寺社奉行所・記録にないかとの本格的な調査が必要です。
恩徳寺を管轄していた中本寺が何寺か、現存しているのかの調査が必要です。

参考文献 江戸幕府寺院本末帳集成 下 寺院本末帳研究会 昭和56年 雄山閣出版  山口県立図書館蔵

 


恩徳寺と護国山曹源禅寺

http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/ 


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