
2009年01月09日
平成19年10月20日
寛永十二年(1635)学館院記録所文書 調査報告書
1. はじめに
『仁尾村誌』(大正8年・1918・仁尾村/編)は、仁尾村の沿革として「貞治元年(1362)頃阿波国撫養浦ヨリ浪越内膳ト云フ人本村ニ入レリ」で始まり、仁尾村の名家として『浪越氏系図』を紹介しています。
『浪越氏系図』は香川県の行政資料として唯一、「詫間之学館院記録所」との記録があり、讃岐国荘内半島の中世史を記録している重要な歴史記録です。しかし、『仁尾町誌』(1955 仁尾町誌編纂委員会/編 仁尾町役場)以降の町誌には、「詫間之学館院記録所」との記録は無く、結果として荘内半島の中世記録が『香川県史』に欠落しております。
この理由は、「詫間之学館院記録所」との記録が、『浪越氏系図』のみの記録であり、他に補完する記録がなく、内容が検証出来なかったことに起因していると考えます。
私は田井家・詫間家文書という2通の学館院記録所文書と長尾家・三井家文書を検証し『正保弐年(1645)学館院記録所文書調査報告書』を平成19年6月に出版しました。
仁尾町誌編纂委員会が評価できなかった『浪越氏系図』を検証しましょう。
平成19年9月1日に浪越内膳の末裔である浪越和久様にお会いして、詫間の「学館院記録所の所在地」伝承を確認しました。浪越家の伝承では「学館院記録所の所在地は、三豊市詫間町詫間池尻の旧登記所周辺」との説明でした。
9月20日に浪越和久様より、3通目の学館院記録所文書が送付されてきました。『寛永十二年(1635)学館院記録所文書』です。記録内容は、『仁尾村誌』が明治時代までの浪越氏系図であり、学館院記録所文書は寛永十二年(1635)までの記録です。
「奉献正八幡宮」とあり、正八幡宮へ献上するために書写されたものの写しです。
2. 浪越氏系図 『仁尾村誌』
日本武家祖道臣命後胤物部大連拾三世苗裔物部参議元顯卿三男兵部信顯、花山院御宇即位元年(984)十一月廿日勅命ニ依而於二紀伊国受二封六万石一任遠江守一叙従四位下 海部郡 浪越之城ニ入部依テ之以浪越一氏是物部姓ニ而浪越家元祖也。
元祖 浪越遠江守 従四位下 信顯 二世 浪越民部頭 従五位上 久顯
三世 浪越釆女頭 従五位上 勝豊 四世 浪越長門守 従五位下 教重
五世 浪越主膳頭 正五位下 信忠 六世 浪越和泉守 正五位下 康長
七世 浪越伊勢守 従四位下 政長 八世 浪越上総守 従四位下 則光
九世 浪越志摩守 従五位下 信武
是信武花園院御宇即位元年(1308)十二月十九日有二陰謀一ト云本多筑前守之言(言+参)言ニ依而 所領六万石御召上ト成リ執権北条家ニ生捕レ阿波国撫養浦ニ流罪五百羅漢ニ浪人侘住居ス。
(十世)浪越内膳 信貞
貞治元年(1362)官領職細河頼之ニ属シ而諸国ヘ出陣シテ有勲功仍而知行賜二ル五千石一。
細河右馬頭頼之従二貞治(1362〜1368)頃一為二四国所領一居城 阿波国勝浦郡勝端也号二御屋形平常住所ハ京東山也。
東讃 大内 寒川 三木 山田 香東 香西 南條 北條 八ケ郡雖二有リト先主一従二貞治(1362〜1368)頃細河氏領トナル。
是内之諸大名皆悉ク細河氏ニ降参シテ成二家臣一。
寒川郡雨瀧 安富筑後守 東讃ハ州角(角+弱)頭白鳥代参両役高壱万八千石。
香西郡勝賀 香西伊賀守 東讃ハ州角(角+弱)岩清尾代参両役高参万七千石。
是外東讃諸大名 細河氏馬廻武士役
西讃岐奈珂、鵜足、三野、苅田、多度、五ケ郡ハ学館院別当橘氏長者大隅守舊(旧)領也。
箱御崎 詫間 長尾三ケ城之城附也。
学館院六萬石於南海六ケ国ニ足利将軍ヨリ賜ル。官領細河氏ヨリ取納也。
大隅守居城附学館院附惣〆高 拾六萬七千石
西讃岐内
鵜足郡宇多津 奈良太良左衛門
東国和州奈良住細河氏代役ニ而学館院領六万石御取納役也。并ニ土岐(器)宮代参役。
多度郡雨霧 香川山城守
東国下総国細河氏ノ家臣ニ而出張役也。学館院領六万石御取納役并ニ琴弾宮代参役。
苅田郡高屋 今井伊予守 細河氏家臣。知行五千石。
詫間之学館院記録所ニ而伊予国舊(旧)記吟味シテ京都官領方ニ送ル役也。
三野郡仁尾 十世 浪越土佐守 細河氏家臣ニ而知行五千石。
詫間之学館院記録所ニ而土佐国舊(旧)記吟味シテ京都官領方ニ送ル役也。
十一世 浪越土佐守 信綱 十二世 浪越土佐守 元綱
十三世 浪越土佐守 元光 十四世 浪越土佐守 元晴
十五世 浪越土佐守 昌綱 十六世 浪越土佐守 敦光
応仁元年(1467)高屋今井伊予守仁尾浪越土佐守両家共誤事有而知行五千石御召上ト成。
長ク火非番ト成リ而為レ致敷地ト御免被作附捨扶持十人扶持被下浪越氏ハ仁尾村ニ住居今井ハ高屋ニ住居。
仁尾高屋両氏ヘハ連枝臣細河氏入部ノ仁尾ヲ細河土佐守ト云フ高屋ヲ細河伊予守ト云フ。
十七世 浪越九良左衛門 正道 十八世 浪越小文治 喜敦
十九世 浪越藤内 守道 廿世 浪越太良左衛門 業敦
廿一世 浪越喜十郎 清成 廿二世 浪越八郎三衛門 義實
廿三世 浪越十良左衛門 清家 廿四世 浪越兵治郎 家行
于時天正七年(1580)二月下旬土佐長曽我部元親当国ヘ乱レ入リ細河伊予守責被落三月二日仁尾ヘ乱レ入リ、細河土佐守千変萬化ト合戦スル処多勢不勢ナル故ニ遂ニ三月三日仁尾落城。仍之浪越氏モ細河氏ヨリ賜ル拾人扶持断其後ハ農業シテ渡世ス。
廿五世 浪越惣右衛門 行信 廿六世 浪越治良兵衛 信貫
于時 寛永十二年(1635)三月十九日 改レ之
学館院記録所
3. 紀伊国海部郡 浪越城
日本武家祖道臣命後胤物部大連拾三世苗裔物部参議元顯卿三男兵部信顯、花山院御宇即位元年(984)十一月廿日勅命ニ依而於二紀伊国受二封六万石一任遠江守一叙従四位下 海部郡 浪越之城ニ入部依テ之以浪越一氏是物部姓ニ而浪越家元祖也。
3.1 日本武家祖「道臣命」
『姓氏家系大辞典』には、物部氏を「職業部の一にして軍事刑罰の事に興りし品部也」と説明しています。学館院記録所は「道臣命」の後胤と説明しています。道臣命は記紀に登場する人物です。大伴氏の祖。大伴氏系図によれば天忍日命の曾孫。もとの名は日臣命。神武天皇即位前戊午年6月神武天皇東征のとき、八咫烏の先導により先鋒を務め大来目部(記では大久米命)を率いて熊野山中を踏み分け宇陀(菟田)までの道を通します。この功績により道臣の名を賜わりました。
3.2 物部大連 拾三世
『先代舊事本紀巻第五 天孫本紀』には七世孫の時に大臣から大連に変ったとあります。
連の有力な氏族が大和政権の最高執政官である大連になります。
物部氏系譜『先代舊事本紀巻第五 天孫本紀』に下記の記録があります。
十三世孫-物部尾輿連公.荒山大連之子[欽明]
弟,物部奈流連公.亦荒山大連子也
孫,十三世.物部麻佐良連公.目蓮子大連之子.下至建彦連公計六命.亦效此.此連公 [武烈]
弟,物部目連公[継体]
弟,物部長目連公
弟,物部金連公
弟,物部呉足尼連公[欽明]
弟,物部建彦連公
3.3 参議
参議は、日本の令外官の朝廷組織の最高機関である太政官の職の一つです。中納言に次ぐ官で、四等官の中の次官に相当します。宰相とも云います。漢風名称は相公です。
宮中の政(朝政)に参議する(「参政朝議」)という意味で、朝政の議政官に位置します。
参議以上および三位以上の者を公卿と称し、参議は公卿に列していますが、弁官や蔵人頭を歴任した参議は実務者として重宝がられました。参議に官位相当の相当位はありません。そのため、位階に応じて行・守を添えることはありません。なお、位階によって氏姓名の綴りは、四位であれば氏名の後に姓(例えば、平清盛朝臣)、三位以上であれば氏-姓-名(例えば、平朝臣清盛)とされました。
3.3.1 物部参議元顯卿
参議の名前は、『国史大系53 公卿補任第一篇』に記録されています。
参議元顯卿の任官期間を推定して記録の精査が必要です。
3.3.2 三男兵部信顯
『新後撰和歌集 卷第十七』歌上に、藤原信顯朝臣の和歌が収録されています。
『新後撰和歌集』は鎌倉時代の勅撰和歌集、二条為世撰、二十巻、千六百余首、嘉元元年(1303)十二月奏覧です。
「冬さむみ あらしになびく 炭がまの 烟にまじる 嶺のうき雲」
3.3.3 花山院御宇(984-986)即位元年
花山天皇(華山天皇、968〜1008)在位:984〜986)は、第65代の天皇です。
平安時代中期の天皇です。諱は師貞。冷泉天皇の第一皇子。母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。子には花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家)の祖となった清仁親王がいます。
3.4 紀伊国海部郡 浪越之城
紀州熊野古道大辺路の古道は、和歌山県西牟婁郡すさみ町の中心街を過ぎると浪越の坂(串ノ戸)、馬転坂、タオの峠を経て、大辺路屈指の景観を誇る長井坂へと続きます。
すさみ町のあたりは6世紀ごろより長らく熊野地域(紀南)の中心地でした。
京極中納言 藤原定家卿記『後鳥羽院 熊野巡覧記』の「熊野道之間愚記略々建仁元年(1201)十月」に、「転坂難所なり浪越の坂と云を過て周参見に至る。鬮の川より是迄四十八坂有。」とあります。1657年に熊野奉行所(周参見小学校)が置かれてからは、名実共に南紀支配の中心地となりました。すさみ町には、浪越城の記録はありません。
すさみ町の城郭としては、周参見城(西牟婁郡すさみ町周参見)と神田城(すさみ町神田)が記録されています。古来、名古屋は浪越と表記されていました。
アクセス 新大阪駅から約2時間30分、JR紀勢本線・特急くろしお号で周参見駅下車
4 阿波国への流罪
是信武花園院御宇即位元年(1308)十二月十九日有二陰謀一ト云本多筑前守之言(言+参)言ニ依而 所領六万石御召上ト成リ執権北条家ニ生捕レ阿波国撫養浦ニ流罪五百羅漢ニ浪人侘住居ス。※ 言(言+参):ひそかにそしる。
4.1 花園院御宇即位元年(1308)
花園天皇(1297〜1348)は第95代天皇(在位:1308〜1318)。諱は富仁。大覚寺統の後二条天皇の崩御に伴い12歳で即位。大覚寺統の後醍醐天皇に譲位。1330年、皇太子時代の光厳天皇を訓戒するために記述した誡太子書は、来るべき動乱の時代を予見した文章として名高く、歌道に優れ、京極派の重要なメンバーの一人で風雅和歌集の監修を行ないました。『花園天皇宸記』を残しています。仙洞御所である洛西花園の荻原殿にちなみ、生前は「萩原法皇」と称され、崩後花園院と追号されました。
4.2 本多筑前守
本多筑前守の記録は発見できませんでした。
4.3 阿波国撫養浦
現在の徳島県鳴門市撫養町です。鳴門市の中心部です。鳴門市役所が徳島県鳴門市撫養町南浜字東浜です。徳島県立鳴門高等学校の住所が徳島県鳴門市撫養町斎田字岩崎です。
4.4 五百羅漢と無尽山地蔵寺
現在の徳島県板野郡板野町羅漢字林東にある無尽山地蔵寺。無尽山奥の院、羅漢堂の五百羅漢です。境内正面に釋迦堂が建ち釋迦如來が祀られ左右に回廊で結ばれた彌勒堂 大師堂が建ち、此の回廊に等身大の羅漢像が立ち並びます。
地蔵寺は真言宗御室派の寺院で、無尽山荘厳院と号し本尊は勝軍地蔵菩薩、胎内に弘法大師が刻まれた勝軍地蔵が納められています。嵯峨天皇の勅願で開基、開山は弘法大師空海。浦山の羅漢堂は大正11年(1922)再建されました。四国八十八ヵ所の第5番札所です。
淳和・仁明天皇の帰依を受け、源義経・蜂須賀家などの信仰を集めました。
アクセス 板野駅からバス羅漢下車
5 官領職細河頼之の家来
貞治元年(1362)官領職細河頼之ニ属シ而諸国ヘ出陣シテ有勲功仍而知行賜二ル五千石一。細河右馬頭頼之従二貞治(1362〜1368)頃一為二四国所領一居城 阿波国勝浦郡勝端也号二御屋形平常住所ハ京東山也。
5.1 管領
管領とは室町幕府の職名です。もともとは役職や領地を管理・支配することの意味を持つ言葉で、鎌倉幕府の執権も管領とよばれました。室町時代を通じて管領に任じられた斯波武衛家・河内畠山家・細川京兆家の三管領家と、侍所頭人に任じられた四家である四職は、合わせて「三管四職」と呼ばれます。元来は足利宗家の家宰で秘書官的役割を担い、主従的な支配機構を司る執事がもとになっています。
足利尊氏が北朝を擁立して開いた武家政権(足利幕府、室町幕府)は、尊氏の弟の足利直義が政務を担当する二元的な統治機構を持ち、高師直・仁木頼章・細川清氏が幕府の執事職を務めました。2代将軍足利義詮の頃には幕府内部の抗争で細川清氏が失脚するなど不安定で義詮は一時的な将軍親政を行いました。義詮時代には領域的な支配機構を司る引付衆の役割を縮小して執事職の権限を強化し、一元化な統治機構の確立を目指しました。1362年には13歳の斯波義将が任じられ、父の斯波高経が後見しました。
1366年には反斯波派の佐々木道誉らによる貞治の政変で斯波氏が失脚し、道誉らの支持を得た細川頼之が執事となりました。執事から管領との転換は清氏から頼之の間であったようです。以後は、政務は管領が統括し、足利将軍家の家政は政所へ移行するようになりました。1398年に畠山基国が管領になると、それ以降は足利一門の斯波家・畠山家・細川京兆家から交代で任じられる事となりました。
人事や評定を経た内容は管領奉書に書かれて諸国へ発せられました。3代足利義満、4代将軍足利義持時代には宿老を中心とする合議制となり管領職の地位が低下し、経済的負担もあったことからまず斯波家が衰退しました。
6代将軍の足利義教は将軍権力の強化を目指し、管領の権限は縮小されました。8代将軍足利義政時代に起こった応仁の乱では、始め管領の斯波義廉は山名宗全(持豊)率いる西軍に属し、将軍義政らは細川勝元率いる東軍に確保され幕府における将軍と管領が分裂しました。
1468年には東軍を率いる細川勝元が管領となりました。応仁の乱後は将軍権力及び斯波・畠山両家は衰退する一方で細川氏のみが権力を広げていきます。やがて細川勝元の子・細川政元が細川氏による管領職の世襲化を確立、やがて明応の政変で将軍が廃立するなど幕府権力の全てを掌握しました。だが、後継者を巡って政元が家臣に暗殺されると、細川氏は分裂し衰退して管領職も形骸化していきました。1563年の細川氏綱の死後、自然消滅しました。
5.2 細川頼之
細川頼之(1329〜1392)は南北朝時代から室町時代の武将、幕府管領です。幼名は弥九郎。右馬助、右馬頭、武蔵守。官位は従四位下。
足利氏一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い観応の擾乱では幕府方に属しました。
管領に就任して幕政を指導し、足利義満を補佐し半済令の施行や南朝との和睦などを行いました。父は細川頼春で、母は黒沢禅尼。兄弟に細川頼有、細川詮春、細川頼元、細川満之。妻は持明院保世の娘で、室町幕府3代将軍足利義満の乳母です。養子に細川基之。細川頼元は頼之の養子として管領となり、細川氏は室町時代を通じて斯波氏、畠山氏とともに管領家となりました。
初見は、足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱における阿波における軍事行動です。頼春に従い将軍足利尊氏に属し、1350年に阿波国守護の小笠原頼清が乱に乗じて南軍に属すると、頼春に代わり派遣されています。阿波在陣中の1352年には南軍の京都侵攻で父頼春が戦死し、頼之は弔い合戦のため軍を率いて上京、尊氏の嫡子足利義詮に属し讃岐の軍勢を率いた弟の頼有らと男山合戦に参加して南軍を駆逐しました。
京都在陣中に阿波では再び南軍の活動が活発になり、頼之は父の分国を継承し右馬助にも任じられ阿波守護に補任されると、その後数年は領国経営に従事し南朝との戦いや阿波の小笠原氏や伊予の河野氏、国人勢力らと戦い四国における領国支配体制を固めました。 中央では尊氏庶子足利直冬が南朝とも通じ、山名時氏ら反幕府勢力を結集させて京都を脅かし、中国地方から伊予国(愛媛県)に勢力を及ぼしていました。幕府では義詮を総大将に大規模な直冬征討の軍勢を起こします。
阿波の頼之には伊予への発向が命じられ、1354年には伊予の豪族河野通盛に代わって伊予の守護に補任されました。翌年に義詮の軍勢が進軍しましたが、越前守護斯波高経の離反で直冬勢に京都を奪還され、頼之は引き返した義詮とともに京都奪還に加わり摂津神南合戦に加わりました。南軍駆逐後は、しばらく京に滞在し右馬頭に任じられています。
翌1356年には再び直冬征討軍が起こされ、頼之が備後守護に任じられ、大将として九州で勢力を持っていた直冬の追討指揮を命じられました。この時、頼之は闕所処分権を将軍尊氏に拒否され、阿波へ下国しようとして就任を固辞し、従兄弟の清氏に説得されて帰京しました。
阿波には有力被官新開氏を守護代として南軍に対処した頼之は、中国地方へ発向し備前、備中、備後、安芸、伊予など数カ国を統轄し、各地で軍勢催促や感状授与など軍事指揮権のほか、所領安堵や守護権限など行政職権を行使しています。
頼之は軍事指揮者として「中国大将」と呼ばれ、地方統轄者としては「中国管領」と呼ばれました。頼之が直冬勢力を逼塞させ、中国地方を平定している頃、中央では将軍尊氏が死去し、義詮が将軍家を継承し、従兄弟の清氏が執事職に任命されました。1362年に清氏は斯波氏や佐々木道誉らとの政争で失脚し、南朝に属して阿波へ渡りました。3月に頼之は将軍義詮から清氏討伐を命じられ、7月に讃岐国へ移った清氏勢を宇多津で滅ぼします。清氏討伐中に直冬勢力は再び活動するが、大内弘世や山名時氏らが幕府方に帰服しており直冬勢力は鎮圧されました。時氏の説得工作には頼之も関わったようです。中国地方が安定すると頼之は中国管領を解任され、細川氏としても中国地方の分国を失ないました。代わって讃岐・土佐の守護を兼ね、四国管領に任じられ、河野氏を追討して四国を統一しました。幕府の管領となっていた斯波義将、父の斯波高経が道誉らの策謀で失脚(貞治の政変)すると頼之は幕府に召還され、道誉、赤松氏ら反斯波派の支持で1367年に2代将軍足利義詮の死の直前に管領に就任しました。
管領となった頼之は佐々木道誉や赤松則祐をはじめ反斯波派の支持を得て、就任当時11歳の3代将軍足利義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所造営など将軍権威の確立に関わりました。執政を開始した頼之は、内政面では倹約令など法令の制定、1368年には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安半済令)を施行しました。
また、1370年には、北朝において後光厳天皇が実子緒仁親王(後円融天皇)への譲位を内々に諮問し、崇光皇子は実子栄仁親王が正嫡であると主張し、皇位継承問題が発生。頼之は事態収拾は聖断によるべきであると深入りを避けつつ天皇側を支持し、上皇側は義詮正室渋川幸子らに運動して対抗すると、頼之は光厳院の遺勅を示して介入を封じました。対南朝政策では交渉を進め、楠木正儀を足利方に寝返らせ、1370年には個人的交友もあった今川貞世(了俊)を九州へ派遣して懐良親王ら南朝勢力を駆逐させ九州制圧を後援しました。
頼之の施政は政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、義詮正室の渋川幸子や寺院勢力の介入、南朝の反抗などで難航し、今川貞世の九州制圧も長期化していました。頼之は辞意を表明して義満に退任を留められ信任を回復する事も何度かありました。1379年、細川氏が紀伊における南朝征討に失敗すると、義満は山名氏清らに軍勢を与えて征討を行わせました。さらに頼之と斯波氏や土岐頼康に対して兵を与えると諸将は頼之罷免を求めて京都へ兵を進め、斯波派に転じた京極氏らが参加して将軍邸を包囲し、頼之の罷免を求めるクーデターである康暦の政変を起こしました。義満から退去令を受けた頼之は一族を連れて領国の四国へ落ち途中で出家しました。後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策も覆されました。斯波派が望む頼之に対する討伐は義満が抑えました。政変を知った河野氏が南朝から幕府に帰服し、斯波派と結んで頼之討伐の御書を受けて頼之と対抗しました。頼之は管領時代に弟の頼有に命じて国人の被官化に務めており、これを利用して河野氏や細川清氏の遺児の正氏らを破り、1381年には河野氏と和睦して分国統治を勧めました。弟の頼元が幕府に対して赦免運動を行い、1389年の義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐国の宇多津で赦免されました。1391年には斯波義将が管領を辞任し、頼之は義満から上洛命令を受けて入京しました。後任の管領には頼之の弟の細川頼元が就任すると、頼之は政務を後見し宿老として幕政に復帰しました。1390年には備後国の守護となります。この年の明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦いました。1392年死去、享年64。
5.3 居城 阿波国勝浦郡勝端
『南海通記』の「細川頼春・四国大将軍に任ずる記」に「四国の大軍を賜りて阿波国に下向し、勝浦郡勝端の邑に安居す。」とあります。
四国霊場20番札所の鶴林寺が勝浦郡勝浦町です。雌雄の白鶴が本尊地蔵大菩薩の降臨を守護したと伝えられる鶴林寺。海抜約500mにあり、お遍路さんにとっては、「一に焼山 (焼山寺)、二にお鶴(鶴林寺)、三に太龍(太龍寺)」と呼ばれる難所のひとつです。真言密教の道場として、また、仏像や仏典、仏画など貴重な文化財の宝庫としても知られています。
勝浦町のほとんどが勝浦川の流域にあり、勝浦川は町の中央部を西から北へ流れます。北には徳島市との境界に中津峰山があります。周りを山に囲まれています。
5.4 御屋形平常住所ハ京東山。
京都の細川頼之邸は、火事見舞いの記録から六条万里小路(京都市中京区)付近と推定されます。幕府が花の御所(京都市上京区)へ移されるまでは出仕に近い場所でした。
6 学館院六萬石と学館院別当橘氏長者 大隅守
東讃 大内 寒川 三木 山田 香東 香西 南條 北條 八ケ郡雖二有リト先主一従二貞治(1362〜1368)頃細河氏領トナル。是内之諸大名皆悉ク細河氏ニ降参シテ成二家臣一。寒川郡雨瀧 安富筑後守 東讃ハ州角(角+弱)頭白鳥代参両役高壱万八千石。
香西郡勝賀 香西伊賀守 東讃ハ州角(角+弱)岩清尾代参両役高参万七千石。
是外東讃諸大名 細河氏馬廻武士役
西讃岐奈珂、鵜足、三野、苅田、多度、五ケ郡ハ学館院別当橘氏長者大隅守舊(旧)領也。
箱御崎 詫間 長尾三ケ城之城附也。
学館院六萬石於南海六ケ国ニ足利将軍ヨリ賜ル。官領細河氏ヨリ取納也。
大隅守居城附学館院附惣〆高 拾六萬七千石
西讃岐内
鵜足郡宇多津 奈良太良左衛門
東国和州奈良住細河氏代役ニ而学館院領六万石御取納役也。并ニ土岐(器)宮代参役。
多度郡雨霧 香川山城守
東国下総国細河氏ノ家臣ニ而出張役也。学館院領六万石御取納役并ニ琴弾宮代参役。
苅田郡高屋 今井伊予守 細河氏家臣。知行五千石。
詫間之学館院記録所ニ而伊予国舊(旧)記吟味シテ京都官領方ニ送ル役也。
三野郡仁尾 十世 浪越土佐守 細河氏家臣ニ而知行五千石。
詫間之学館院記録所ニ而土佐国舊(旧)記吟味シテ京都官領方ニ送ル役也。
6.1 東讃と西讃
東讃は香川県東部の東かがわ市、さぬき市、高松市及び木田郡、香川郡、小豆郡、西讃は西部の観音寺市及び三豊市、中讃は中部の坂出市、丸亀市、善通寺市及び綾歌郡、仲多度郡です。中世には中讃はありませんでした。
6.2 南海六ケ国
南海六ケ国とは、紀伊国(紀州) 淡路国(淡州) 阿波国(阿州) 讃岐国(讃州) 伊予国(予州) 土佐国(土州)のことです。
6.3 学館院六萬石と学館院別当橘氏長者 大隅守
学館院別当橘氏長者大隅守については三井家、長尾正瑛家文書に詳細な記録があります。
三井家文書
時ニ貞治元年(1362)七月下旬。大隅守元高公、北朝ノ勅命ニ依リ而南朝方大将中院源少将ト云フ鵜足郡長尾城主ラ誅伐ス。其功ニ依テ奈加郡鵜足郡並ニ向ノ嶋々其外於テニ、
南海道六ケ国内一ニ為二学館院領ト一。六万石前舊(旧)領三野苅田多度共、都合拾六万七千石受領ス。長尾山ニ新城ヲ築キ、応安元年(1368)正月二十七日。箱御崎詫間ノ両城江ハ城番ヲ附置キ、長尾城ヘ移ル。依テ長尾大隅守ト云。
長尾正瑛家文書
人王三拾一世敏達天皇後胤、讃州三野郡箱御崎詫間両城主司大隅守橘元高、貞治元年(1362)北朝之勅命に依而、鵜足郡長尾出張中院源少将と云南朝の強敵を誅伐す。其功に依而将軍義詮公より奈珂郡鵜足郡を受封す。長尾山に新城を築き応安元年(1368)正月二十七日御崎詫間両城江城番付置長尾城江入部す。依而長尾大隅守と云。大隅守元高以二朶橘一為二家紋一。長尾領分高拾六万七千石 内城付拾万七千石、学館院領六万石、都合拾六万七千石也。
7 細川家四天王の末裔
寒川郡雨瀧 安富筑後守
香西郡勝賀 香西伊賀守
是外東讃諸大名 細河氏馬廻武士役
鵜足郡宇多津 奈良太良左衛門
多度郡雨霧 香川山城守
『南海通記巻五』に「享徳元年(1452)より細川右京太夫勝元は、畠山徳本に代りて管領職を勤むる事十三年に至る。此の時、香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門元安四人を以て、統領の臣とす。世人是れを細川家の四天王と云ふ也」とあります。
浪越氏系図に記録されている四人は、全て細川京兆家四天王の末裔です。
7.1 寒川郡雨瀧 安富筑後守
『全讃史』に「雨瀧城は寒川郡富田雨瀧山上に在り。安富山城守盛長、之を築く。其の子を筑後守盛正と曰ひ、其の子を筑後守盛方と云ふ。是れ則ち細河勝元四傑の一也」と筑後守親子の名前があります。
7.2 香西郡勝賀 香西伊賀守
『全讃史』に「勝賀城(在勝賀山嶺)香西の要城也」とあり、讃州藤家系図に「佳清(伊賀守、法名宗可、管領家の一字を止む。)」とあり、叉,[藤尾城(在香西村)此の地奮と八幡祠あり。其の海に瀕みてね冠を禦ぐに便なるを以って、天正三年(1580)、香西伊賀守、祠を三上に遷して、其の地に城く。同五年・城成りて佐料より移る。]とあります。
7.3 鵜足郡宇多津 奈良太良左衛門
『南海通記巻五』に「享徳元年(1452)より細川右京太夫勝元は、畠山徳本に代りて管領職を勤むる事十三年に至る。此の時、香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門元安四人を以て、統領の臣とす。世人是れを細川家の四天王と云ふ也」とあり、 全讃史に「宇多津城、聖通寺山にあり。奈良太郎左衛門これを築く」とあります。
7.4 多度郡雨霧 香川山城守
『全讃史多度津城條』に「雨霧城は弥谷山の東嶺に在り、香川氏の要城也」とあり、叉「高谷城は豊田郡室本上にあり、香河山城守之に居る。」とあります。
7.5 東讃諸大名 細河氏馬廻武士役
『南海通記巻五』に「各々讃州に於いて食邑を賜ふ。那珂鵜足ニ郡は藤橘両黨の所有也。是を細川家馬廻の武士とす。」と説明しています。
「藤橘両黨」については、『学館院別当 北畠准后親房卿著延宝7年(1679)職原鈔上 群書類従巻71官職部ニ』に説明があります。
讃岐橘氏とは長尾・寒川・三木氏、讃岐藤氏とは香西・羽床・詫間・新居・福家氏とされています。
『学館院別当 北畠准后親房卿著延宝7年(1679)職原鈔上 群書類従巻71官職部ニ』
7.6 東讃ハ「州角(角+弱)頭と州角(角+弱)」の意味
角(角+弱)は、アク・ダク・ニャクと読み、その意味は、@弓を調へる。A弓を摩りみがく。B屋根のかど。です。
「州角(角+弱)頭」と「州角(角+弱)」は讃岐国東讃の中世の地形の形を意味しています。
8 代参の意味
細川家四天王が全て代参役を兼任していました。
四つの宮とも、管領 細川頼之(1329〜1392)が尊崇した縁の神社です。
8.1 白鳥代参 白鳥神社(香川県東かがわ市白鳥町松原69 電話0879-25-3922)
『古事記伝には「源平盛衰記に日本武尊白鶴に化して讃岐国に至り、白鳥明神となるといへり」とあります。
祭神:日本武尊,両道入姫命,弟橘姫命
アクセス JR高徳線「讃岐白鳥駅」から徒歩5分。
8.2 岩清尾代参 石清尾八幡宮(高松市宮脇町1-30-3 電話 087-862-5846)
石清尾八幡神社は、石清尾山(232m)の東麓に鎮座する神社です。亀ノ尾山の摺鉢谷から石清水が渓流となり、その裾の処の八幡様という意味です。周囲には、稲荷山、室山、浄願寺山などが連なっていて、この一帯に石清尾山古墳群として知られ多くのの古墳が広がっています。
讃岐守護となった細川頼之は、細川清氏追討の際、伊予の河野通盛が将軍の命令に応じなかったことを責めて、貞治3年(1364年)の9月、伊予に侵攻を開始します。出陣にあたって頼之は石清尾神社に参詣し、戦勝を祈願しています。石清尾神社では、5月の2、3日に「市立祭」が催されますが、これは頼之が伊予の河野氏を討ったとき、石清尾八幡宮に立願成就を感謝して始まった祭りと言われており、頼之の名が右馬頭であるところから市の名がついたと言われています。また、9月4日に「蜂穴神社例祭」が催されますが、これは頼之が合戦のおり、お参りしたところ祠の穴から数百匹もの蜂が飛び出し敵方の兵を襲い頼之は戦に勝つことができたという言い伝えによります。頼之は社殿を拡築し武具を奉納しております。
末社に高良神社があります。アクセス 予讃線 高松駅西南1キロ、高松駅からバス。
8.3 琴弾宮代参 琴彈八幡宮 (観音寺市八幡町1-1-1 電話0875-25-3828)
祭神 應神天皇 神功皇后 玉依姫命
「七宝山八幡琴彈宮縁起」が知られています。この縁起は、応永二三年(1416)権中納言藤原実秋筆、足利将軍義持の花押があります。享徳元年(1452)の臨時祭事記に細川伊予守、天文20年(1551)の練札に伊予守氏頼とあります。
アクセス 予讃線観音寺駅 北1.5キロ バスで10分。
8.4 土岐(器)宮代参 田潮八幡宮 (丸亀市土器町東5丁目 電話087-722-5384)
土器宮とは、現在の田潮八幡宮です。
祭神は譽田別命です。青野山西麓に鎮座青ノ山西麓に鎮座する古社です。
南北朝時代貞治元年(1362)7月、細川頼之が将軍足利義詮の命により、細川清氏を松山郷高屋城(高屋の役)に攻めたとき、出陣に際し土器八幡宮に戦勝を祈願しました。
『全讃史』には、「はじめ源少将が攻めてきた時、頼之は土器八幡宮付近へ退却したところ、社前の水田地帯一面に潮が満ち、敵軍を防いだので田潮八幡宮と称した」と伝えています。
『讃岐国名所図絵』によれば頼之は宇多津の館に凱旋ののち、社領を寄進し、祝勝の松を手植えしたが、栄えて数十歩の笠松となり、掛引の松 陰陽和合の松と呼ばれて世に親しまれたという。境内に頼之の松の石碑があり往時を偲ばせます。
アクセス 予讃線 丸亀駅東3キロ、田潮八幡宮バス停下車。
9 火非番
応仁元年(1467)高屋今井伊予守仁尾浪越土佐守両家共誤事有而知行五千石御召上ト成。
長ク火非番ト成リ而為レ致敷地ト御免被作附捨扶持十人扶持被下浪越氏ハ仁尾村ニ住居今井ハ高屋ニ住居。
仁尾高屋両氏ヘハ連枝臣細河氏入部ノ仁尾ヲ細河土佐守ト云フ高屋ヲ細河伊予守ト云フ。
火非番の火は、「律令制で軍団の一組のことで兵卒10人から構成」されます。十人扶持の説明です。
9.1 仁尾城主 細川土佐守頼弘
『全讃史』に「仁尾城は仁尾浦に在り、今の覚城院の地・是れ也。細河土佐守頼弘・之に居る。」とあります
9.2 連枝臣 細河土佐守頼弘
連枝とは「高貴な方の兄弟姉妹の意」です。1955年発行の『仁尾町誌』に「金光寺は・・・かって細川氏の香火院であったので、政元高国頼弘等の位牌を安置している。」とあり、金光寺の説明文には、「細川家三代の位牌ならびに石碑は当寺で香火。なかんづく細川土佐守頼弘公の墓、位牌は現存。」とあります。
香火とは「仏前で焼香をするための火」を意味し、香火院とは菩提寺のことです。
『細川系図』によれば、「細川頼之(1329〜1392)の兄弟、頼元の家系は満元、持元と続き、持元の兄弟、持之の家系は、勝元、政元、高国」と続きます。
賀茂神社に細川持之文書がありますが公開されておりません。
細川頼弘は高国の孫、稙国(1498〜1525)の子供と推定されます。
持之(1400〜1442)、勝元(1430〜1473)、政元(1466〜1507)、高国(1484〜1531)は全て管領職です。仁尾町誌編纂委員会の位牌調査が不充分です。
「政元高国頼弘等」とあり、「等の位牌」を詳細に調査すれば家系は明確になります。
9.3 細川稙国
明応7年(1498)細川高国の子として生まれ、大永5年(1525)に高国は、4月に出家し家督と管領職を父高国から譲られました。しかし10月病のため早世しました。管領職を譲られてわずか半年のことでした。享年28歳。
金光寺 細川土佐守頼弘 墓所
9.4 賀茂神社文書と学館院
『仁尾町誌』第二項「仁尾町の荘園」に賀茂神社文書として、「観応元年(1350)の細川顕氏の禁制、永徳三年(1383)の細川頼之の下文、細川頼元文書を紹介して、以下細川満元持之等のものもあるが省略」とあります。
細川顕氏(〜1352)以外の細川頼之(1329〜1392)、細川頼元(1343〜1397)、細川満元(1378〜1426)、細川持之(1400〜1442)は全て管領職です。管領直筆の記録省略には驚きます。賀茂神社文書の全てを再調査し公開すべきです。調査ポイントは室町時代を通じて管領職に任じられた斯波武衛家・河内畠山家文書の有無です。
両家の文書が無ければ、賀茂神社は細川京兆家直轄の神社となります。
大蔦島(津多島)供祭所跡 賀茂神社
国立公文書館所蔵の『学館院別当職事』は、「著橘知顕・南北朝時代写・凡人太政大臣等と合う」とあり、『学館院別当之事』は「堀川院鳥羽院元服記部類の上背・弘安8年(1285)」とあります。
京都の学館院文書の中で讃岐国関連は、『賀茂別雷社氏人等申欝訴條々事書』のみです。
賀茂神社にて、学館院・学館院記録所・細川家が繋がりました。
賀茂別雷社氏人等申欝訴條々事書長日臺飯斷所。讃岐国社氏部。両郷相違無術子細事。
右社氏部両郷之神領者建長(1249〜1256)弘安(1278〜1288)二代之聖蠋也。
後嵯峨院御時(1242〜1246)被寄附社郷。亀山院御代(1259〜1274)被加寄氏○
奈誇敬神相続之恩化奉致宝祚無禮之懇祈恒例之勤臨。
感風夜逃懈長日御祈祷之斷所毎日臺飯之用之也且如。
院宣者氏人中令知行可全彼役云。被寄神領於社家争奮。
○雖多被完知行於氏人事前段希有預懇勤之。勅哉施矜。
○之眉目可執可惜者以地也争背勅願之 叡慮可改氏人之。
○行哉而去徳治年中(1306〜1308)神主経久之時以一條以北内神田可立替。
○郷之由有其沙汰然而馬宗之氏人等不承諾而止畢其後○
○務家礼并不知案内之氏人等猥及其企梗言語道断之次第。
所詮両郷者氏人中之菅領也衆中無一揆者何輙可相博哉氏人。
○日領主也。領主各不和与者誰教可進退哉。
10. まとめ
1. 学館院記録所の浪越氏系図の記録は正確です。
2. 浪越氏系図によって学館院と学館院記録所の具体的な仕事内容が見えてきました。
3. 三井家・長尾正瑛家文書からは「1362年に戦功により足利義詮より奈珂郡鵜足郡を受封し、長尾領分高拾六万七千石内城付拾万七千石、学館院領六万石、都合拾六万七千石也。」との足利義詮、長尾大隅守元高、学館院との関係しかわかりませんでした。
浪越家系図により、管領細川氏と学館院、学館院記録所との関係が明確になりました。4. 「舊(旧)記吟味シテ京都官領方ニ送ル役也」とは、いかなる役職かが不明です。「舊(旧)記吟味」のみで、「知行五千石」はありえません。「苅田郡高屋(香川県観音寺市高屋町)で伊予国、三野郡仁尾で土佐国を監視」していることに注目しました。
「舊(旧)記吟味シテ京都官領方ニ送ル役也」とは、「情報収集(諜報活動)の役にあった武士」の意です。
私は「管領家である細川京兆家直属の諜報活動役」と考えます。「応仁元年(1467)高屋今井伊予守仁尾浪越土佐守両家共誤事有」とあります。
「知行五千石御召上ト成」重大な誤事には、二つの可能性があります。
@「諜報活動役にあった武士」の誤事ですから、「土佐と伊予国で発生した管領方にとって重要な情報」を事前に報告できなかった。
A 応仁元年(1467)に管領職は畠山政長より斯波義廉に交替しています。
管領職に方針変更があり、新方針に反対し解職された可能性があります。
応仁元年(1467)に土佐と伊予国で同時に発生したのは応仁の乱です。応仁の乱は、室町幕府8代将軍足利義政の時に起こった内乱です。土佐と伊予国の対応に違いがでました。5月26日に全面戦争の火蓋が切られ、京都には25万もの兵が集まり10年間の戦いで京都は焼け野原となりました。応仁の乱により下剋上が起こり戦国大名が生まれ「戦国時代」に突入していきます。
追記
奉正八幡宮
学館院記録所文書が奉納された正八幡宮を川東八幡宮と推定しました。三豊市仁尾町にある沓脱八幡宮は八幡宮であり正八幡宮ではありません。正八幡とは「八幡神に贈られた菩薩号、正八幡大菩薩」のことです。
1. 川東八幡神社(高松市香川町川東1175)
祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
由緒(香川県神社誌)
「三社正八幡宮、川東神社等と奉稱せられたり。古老の傳ふる所は當社往昔朝野村横岡の地に鎮座ありて、仁和年中中国守菅原道真の男山八幡宮のより勧請せる所なり。康安元年(1361)細川頼之川東村油山の地に遷座し、天正年中(1573〜1592)兵火に罹り焼失せしを、慶長二年(1597)川東上下両村の氏子之を再営し、現今の地に遷座せりと云へり。當社細川頼之が居住、岡屋形(館)に近きを以て頼之居城の鎮守とし、石清尾、冠纓の両社と當社とを以て三社正八幡宮と稱せしなりと。」
2. 岡屋形(館)(香川郡香南町岡)
延文(1358〜1360)の時、細川右馬頭頼之が新館を行業城の側に建てました。岡ノ館は天福寺の麓の小丘上にある岡城跡の東です。岡氏の岡城跡の微高地に続く東の高まりは、ほぼ南北に走る2mの段差で東端になっており、この辺りが岡ノ館跡です。
『キタダイ、ヒガシキタダイ』の小字名。『香川県中世城館詳細分布調査報告2003』
アクセス 琴電バス 塩江・穴吹線(高松築港〜塩江)竜満池下車
参考文献1. 『正保弐年(1645)学館院記録所文書調査報告書』 2007 沢田山恩徳寺寺史編纂室
2. 『姓氏家系大辞典』太田亮 1981 角川書店
3. 『国史大辞典13』 平成4年 吉川弘文館
4. 『先代舊事本紀巻五 天孫本紀』『新訂増補 國史大系7』 昭和41年 吉川弘文館
5. 『新訂増補 国史大系53 公卿補任第一篇』 昭和39年 吉川弘文館
6. 『国史大辞典6』 昭和60年 吉川弘文館
7. 『国史大辞典7』 昭和61年 吉川弘文館
8 『国史大辞典12』 平成3年 吉川弘文館
9. 「細川系図」『続群書類従巻第百十四 系図部九 群書系図部集第二』昭和48年 続群書完成会
10.『日本史総覧U 古代ニ・中世一』昭和59年 新人物往来社
11.『日本中世内乱史人名辞典下』佐藤和彦他 2007 新人物往来社
12.『戦国人名辞典』 2006 新人物往来社
13.『香川県の歴史散歩』 1996 山川出版社
14.『角川日本地名大辞典』 昭和60年 角川書店
15.『大漢和辞典十』昭和34年 大修館書店
16.『学館院別当 群書類従第五輯 官伝系』 昭和5年 昭和35年 訂正3版
17 『全国神社名鑑 下巻』昭和52年 全国神社名鑑刊行会史学センター
18.『日本社寺大観』 神社編 昭和45年 名著刊行会
19.『仁尾村誌』1918 仁尾村編
20.『仁尾町誌』1955 仁尾町誌編纂委員会
21 『新修 仁尾町誌』 1984 仁尾町誌編纂委員会
22 『学館院別当 職原鈔上 北畠准后親房卿 延宝7年(1679)群書類従巻71官職部ニ』
23 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
24 『奈良県史』 昭和42年 昭和51年復刻版 名著出版
25 熊野古道おすすめコース 長井坂コース
http://www.wakayama-nanki.jp/iyasi/8_oohechi_nagai/8_osusume/nagai.htm
26 熊野古道関係の古書等の資料
http://www.cypress.ne.jp/ojiri/gotobajyoukoukumanomoude.htm
27 和歌山県のお城
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/itiran_wakayama.htm
28 讃岐の風土記 by 出来屋
http://dekiya.blog57.fc2.com/
29.丸亀、坂出、宇多津など西の讃岐の歴史:飯野山(讃岐富士)周辺について
http://tokyo.atso-net.jp/index.php?UID=1124286113
http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/